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166.空と縁起ーその原点と現代的意義をめぐって(14.3.26)
 3月8日の武蔵野大学仏教文化研究所連続公開講座での、東大教授斎藤明氏『空と縁起ーその原点と現代的意義をめぐって』について前号でつぶやき始めて、内容に及ばないまま次号送りにしておいたのに、忙しさに紛れて続きに一向に手が回っていなかった。せっかくの講義内容も記憶が薄れてきてしまう。


 この25年度6回に亘る一連の連続公開講義のテーマは『今を生きる』だった。そのためか、最後の今回の講座の題名は題記のとおりであったが、「現代的意義について、ということは難しいことで、・・・・」と冒頭にお断りされたが、確かにその通りだと思う。まさに前号で私の最初の印象に触れたが、受け取り側の機根による部分大だろう。
 それと、題名が「空と縁起」となっていたが、「空」と「縁起」について話すときに、「空」から先に話すのは順序的にやりにくいだろう。「空という話の前にまず縁起です」と多くの時間を「縁起」の方に費やされたのも納得できる。

 録音を採っていなかったら、前号でつぶやいたように、「なんか散漫だったなー、掴みどころがなかったなー」、くらいの感想で忘却の彼方に沈んでいたところだろうが、録音したものを再生してみて、私の関心キーワードがいっぱいあって、「内容」に入る前の、先生がインド仏教を専門にされるようになった事情までのなかでのことについて、前号でページを消費してしまった。本号では「内容」について、である。

 内容における、私が注意するキーワードは、「大乗仏教は」、「大乗は」である。対置される語は、私としては当然にというかすぐに「小乗仏教」であるが、先生はついに一回もこの語を使わなかった。普通は、使わない人でも、「断り」段階で、使わない事情説明の中に出てきてしまうものなのだが。
 ともあれ、「小乗」の語は90分の間に一度も出ず、対置された語は「伝統仏教」、「初期仏教」であった。ただ、この語の使われ方が、一切説明なしに直接使われていたので、私の、仏教史上の用語を再確認しなければいけないと思ったことでもあった。例えば、”初期仏教の時代に、ブッダ自身がすでに「空」という言葉を使っていた”、というようなお話のなかから、そうか、「初期仏教」は根本・枝末分裂以前の阿含経仏教を言うようだ、と。
 そして、大乗仏教に対置される語は「伝統仏教」であった。そういえば、ここで当然に予想される「部派仏教」という語もあまり使われなかった。注意して録音を聞いたら、”一番古い部派に「切一切有部」というのがあったが、”という表現があっただけであった。「セクト」という語は数度あった。時系列的には部派仏教と大乗仏教が並行していた時代がかなりあったが、その時代での先生の、「大乗仏教」に対置されていたのは、用語は使われなかったにしても、いわゆる「部派仏教」だったんだな、それを「伝統仏教」と称しているんだな、と私は理解した。

 さて、本題の「大乗仏教は」、「大乗は」はどのように話されていたか。
 ”肉体的・身体的ブッダは亡くなったとしても、さまざまなブッダ観が説かれるようになった。特に大乗で、縁起の道理としてのブッダは死んでいないというところを強調して、法身仏など・・・・仏身論”
 ”切一切有部などは、ブッダの説を要素に還元して説明できる(五位七十五法など)としたのに対し、大乗仏教は、この考えは片方の極端で、どのような原因がどのような結果を引き出すかという「道理」=般若=智慧を見極める、見極めた「道理」を身体(法身仏)として・・・・・、決定的違い”
 ”大乗仏教は、ブッダの説の極端を正そう、元のブッダの説を正そう、これが原点・・・”
 ”いろいろなセクトがあったが、大乗仏教は21番目ではない。大乗は「経典」を作った。これが大乗仏教の大きな特色である。経典の役割は、よく読まれ・書かれ、ストーリー性があること、・・・・”
 ”伝統仏教は「これあればかれあり」、原因と結果で、「道理」を重んじない。大乗仏教は「道理」、これが縁起であって、人は変わりうる、これをもとにすると、無我はじめ初期仏教の大体は説明できる、・・・・”
 ”縁起という道理があったのになぜあえて「空」という心理表現を大事にしたかというと、伝統仏教は縁起を原因か結果に振り分けて(縁起支)、これが実在するとしたのに対し、大乗仏教は、諸法が実在する考えはブッダの考えに照らしておかしい、・・・・”
 ”初期仏教の五蘊なども知情意など意志的行為が基礎にあって「関係している」「縁起している」が五蘊が個別セクトは「有る」とするのに対し、大乗は、「実在するという必要はない」、初期仏教の考えからあえて挑戦的な「空」を選び取って、・・・・・”
 
 初期仏教以来「空」はブッダも使っていた、「空三昧」・・・五蘊、働きはある、縁起する、実在といわなくてもいい、実体性については「空」
 ナーガルジュナは、本質を持っていると考えなくてもよい、が何もないではない、「はたらき」があるのだ、変化する面が軽んじられてはいけない、・・・とはいえ否定的ニュアンスあるので、天台智は、空、仮を総合統一して中道、中道第一義観・・・・極端に走らず・・・中国では意味づけられていく、・・・・考えてみるとこの「中道説」は「道理としての縁起」に繋がる、・・・・
 端的に「何が仏教の見方ですかといわれたら」、伝統仏教も大乗仏教も密教も含めて、「縁起の説」、「他によって生じ、他によって変わる、他との関係によって変わる、能作因、所縁因」・・・・
 戒律に関係してくるが、仏教の倫理の基礎にあるのは、有情というのは心を持っている、痛みを感じる、安楽・快を求め、なるべく苦痛を和らげる、自分のわが身に照らして・・・・共通感覚だというところからスタート
 有情が苦しんでいることはよくない、和らげる、宗教としての原点・・・・縁起が基礎になって相寄り合って・・・ことのいたみ、ありがたみ、どれだけ理解できるか


 どうもスッキリしない。話がやはり難しい。「聞く」だけではダメだ。録音したものを速記でもできればもう少しは理解力が上がるかもしれないが、それでも20のところが30くらいのレベルになるだけだろう。上記における漢字変換も正しいかの保証はない。文章に書いたものが欲しい。この先生はあまり単行本は出していないようだ。
 「現代的意義」との繋げは分ったような、分らないような、かなり無理があったような気がする。
 でもこれは私の「機根」の問題が100%であろう。ともあれ、こんなに録音を何回か聞いてもチンプンカン的にしか理解できないながら、やはり私はたくさんに枝分かれした後世の仏教よりも、上記のような「仏教の原点」への関心が萎えない。機根のレベルが低いならそれだけ繰り返し繰り返し勉強する、これしかないだろう。

 武蔵野大学三鷹サテライトで、村石恵照先生の阿弥陀経関係、無量寿経関係の講義を受けたが、先生のよく講義冒頭の「仏教経典のすべてに通底しているのは縁起の法である」が耳に残っている。

 最近、橋爪大三郎『仏教の言説戦略』の第5論文「仏教の言説戦略」と第6論文「大乗教試論」を読んだ。後者が私をかなり惹きつけた。再読して自分の血肉の密度を高めよう。 
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