復活

おじんのつぶやき



  9.庚申、そして青面金剛(16.9.3)

地域の卒業大学同窓生会で、会内サークル「市内歴史散歩」などというものを推進する幹事になってしまっているのだが、6回実施して後しばらく休憩状態に入ってしまっていた。このままではいけない、と奮起して諸他サークル活動の隙間に第7回の予定を組んで公表してしまった。だからといって今回の題とした「庚申」ないし「青面金剛」について、第7回に廻るところに殊更関係があってとりあげたものではない。今回も、該当案件は1件はあるはずであるが、いままでの活動の際何回か直面してそれなりに説明し、特に更に追求されたとかいうこともなかった。今回は、「より多くの知識を」という知的関心からではなく、「人生いかに生くべきか」という実存的関心のうちでの「仏教」関係の勉強の深まりから少しつぶやいてみよう、というものである。

 今までの6回の散歩実施時において、すでに「青面金剛」の石造物、それは陰刻(筋彫)、陽刻(浮彫)、丸彫りであったりしたが、「庚申の日に、熟睡していると、体内の三尸(さんし)が、天に上って人間の過失を言いつけるので、庚申の日の夜は皆で集まって徹夜で明かす、という中国道教に発する”庚申信仰”の象徴だ」くらいで済んでいた。発祥はそうであっても、その後この道教の日本への渡来、やはり渡来の仏教や古来からあった民族宗教神道などとの習合によりその後の歴史が刻まれたのである。

「庚申」、十干と十二支の組合せによるので、最小公倍数は「60」である。暦では、日にちで60日に1度、年ならば60年に1度しか廻ってこない。
 十干とは、昔の成績評価に採用された由である例の、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸。それから十二支とは、言わずと知れた例の、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥である。
 庚申は十干の7番目の「庚」と十二支の9番目の「申」との組み合わせで、音読みでは「こうしん」であるが、訓(?)読みでは「かのえさる」となる。
 ちなみにこの読みの原理も面白い。十干に、やはり古代中国の「五行」思想と「陰陽」思想を取込み日本語読みの組合せにしてその後ろに十二支の日本語読みをつけるのである。
 五行は、木(き)、火(ひ)、土(つち)、金(か:前後から「かね」と読みたいが、「ね」を略して、ただの「か」)、水(みず)で、順序が今の日本語常識と違うから注意を要する。そして陰陽は、陽が先で、兄を「え」と読ませ、陰は弟で「と」と読ませる。五行それぞれに陰陽(順序は陽陰だが)をつけて十干に当てはめる。甲は「き」の「え」、乙は「き」の「と」、・・・・で7番目の庚は「か」の「え」となる。十二支の申は「さる」だから庚申は「かのえさる」となるわけである。

   ともあれ、この「庚申」の日に三尸が上天して天帝に訴えるという「三尸の禍」を避けるだけでなく様々な民衆信仰、例えば不老長寿などの祈願、いろいろな仏教的供養なども習合した行事のようなことが平安期ころの貴族層から行われるようになった。
 さらに鎌倉期などを経て「講」ができてくると造塔、造像なども行われるようになった。
 当初は種子(神仏を表す梵字)が書かれた「庚申板碑」の造立、そして塔を造るようになっても、阿弥陀如来・観音菩薩・地蔵菩薩などを彫った庚申塔の造立というような流れを辿り、問題の「青面金剛」の石造物はかなり後になってからである。
 いずれにしても庚申にからむ石造物は多岐に亘り、「青面金剛」と重なるものもあるが、三猿像、あるいはそれを表現する文字があるもの、「庚」「申」あるいは「帝釈」「桓因」等が読める石塔、「三尸」あるいは「猿田彦」の文字のある石造物、・・・・。
 

個別にみて判断が必要である。
 ここで、「帝釈」「桓因」あるいは「猿田彦」、さらには「青面金剛」の塔に付いていることが多い三猿、あるいは単独などの「猿」、または「鶏」、それから「邪鬼」、6襞像などの手に持つ物等々関連する「何で?」は多いがここでは詳述を避ける。


 私の関心は別のところにある。
 ひとつは、これらの石造物は「仏」関係であること。上記のパラグラフ中の「種子」や、「阿弥陀如来・観音菩薩・地蔵菩薩」は明らかに仏教の用語であるが、私があえて「石造」としたものは、参考とした書物ではすべて「石造」だったのだ。塔は別として(といっても時代劇でよく見る死者を弔って白い角塔のまえでお参りする、あの角塔は?と、同じ勉強対象だが)、あの「青面金剛」の塔が「石仏」。とすると、仏教の方面から「仏像」に迫ってみるが、仏像の種類、如来・菩薩・天部・明王・羅漢・その他のいまのところどこにも見当たらない。この辺の、自分なりの落としどころの散策はまだ続く。

 次にこの「青面金剛」の像容の成立史である。中国にはない。日本で発祥したもので、上記で「詳述を避ける」と逃げてしまったが、それは自分なりの納得が得られていないためで、やはり勉強対象だ。

 次に私の最大関心事。「青面金剛」像はこの西東京市内にはあちこちで見られる。しかし少年時代を過ごした故郷ではこの「異様」なものは一度も見たことがなかった。相当して点在していたものは、自然石に太字が陰刻された「道祖神」だった。近くの別の村に行けばその道祖神も文字を彫りつけたものだけでなく、様々な像が浮き彫りされており、観光地化さえされている。道祖神石造物と庚申関係石造物関係如何?
 いま、ある雑誌の「庚申信仰」欄にこんな記述があった。
 ”本尊は仏教系では青面金剛、神道系では猿田彦大神とすることが多い”
 また同じ雑誌に「道祖神信仰」という欄があったので見てみると、源流は古来の道の分岐点で悪霊を防御する神であったことが書かれたあと、
 ”このほか、道祖神は道案内の神である猿田彦大神の信仰や(中略)”、庚申、(中略)などとも習合している関係で(中略)多種多様な信仰を含んでいる”
 私も小学生である児童のころ「道祖神祭り」をしたが、60年後にその意味を追求するというのも面白い。

 ところで、上記の故郷との関係で、では庚申はどうか?やはり児童のころ、まだ寒さ滲みる雪の残る夜道を、「お庚申さま」に行くんだとぞろぞろ上野の山のすそ野まで行ったものだ。だるま市や縁起物を売る店が十数件出ていてまさに素朴にはしゃいでいたことが思いだされる。何年か前、帰郷したおり、その地に車で行ったことがあったが、真光寺という古ぼけたお寺があっただけだ。このときは庚申に関する関心からでなく、旧サイトの半生の一こまカテゴリー、102号103号辺りの「安曇の古代」に関連してのことであった。関東圏と故郷圏の違い、真光寺が何故庚申?に関係があるのか、追求することは多くてまだ幸いに生きがいはある。

 なお、ちなみに、真光寺と故郷の庚申に関してネット空間にあった記事詳述する。

庚申信仰は「道教」の教えから起こったもので、奈良時代に中国から日本に伝わり、平安時代には貴族の間に庚申の日徹夜して長生きを願い、詩歌、管弦の宴を催したり、語り明かす「守庚申」が定着し、室町時代には民間にも「庚申講」が出来、勤行して庚申様に祈り、徹夜で語り明かす風習「庚申待」が行われはじめ、中信平でも、村の成立と併行して江戸時代以降一層広まり、講単位で供養塔を庚申の年に建てるようになった。
 「庚申待」は何を拝むかという崇拝の対象がはっきりしてきた。庚申の申と猿を関連させ、猿を神の使とする山王権現の進行と結びつき、一方で青面金剛の信仰とも結びつき、江戸時代に入るとこれを庚申様の本尊として造像したり、方々の寺や庚申堂で頒布する画像を祀るようになる。そして青面金剛像と猿の信仰が同座した石像、画像も広まった。浅間温泉の庚申堂の画像は松本市梓川上野「真光寺」から頒布したものである。

今日12日はお庚申様の宵祭りです。浅間温泉には市内梓川上野にある真光寺の分祀の庚申堂があります。毎年、その年で一番早い暦上の庚申(かのえさる)の日に「初庚申」が行われています。市内からも多くのお客様が祈願に訪れ、だるまを買い求める方で温泉街はにぎやかになります。ホットプラザ浅間前ではお汁粉などの振る舞いもあります。寒い中、参拝の途中に是非お寄り下さい。ところでお庚申といえば猿ぼこ(ぼぼ)です。地方が違えばくくり猿というのだそうです。猿ぼこは猿の赤ん坊だそうです。災いが去る(猿)と言って、縁起の良い物とされています。【中略】時代は変われど人々の無病息災を願う気持ちに変わりはありませんね。

真光寺が何故庚申?に関係があるのか、真光寺は最初「高野山金剛頂院の末寺として建立」され、だから元は真言宗なのだろうが、その後一時廃寺的になったが、その後曹洞宗がいまに至るまで引き継いでいるということだ。木造阿弥陀如来及び両脇侍像が重要文化財になっている由で、初庚申が盛大で各地から参拝者が来る、ここまではウィキペディア。なんとも不思議な組み合わせだ。真言宗といえば大日如来か大師像か曼荼羅か・・・・・、と思えば浄土系の阿弥陀三尊、それを禅宗系の曹洞宗が守っている、・・・・。で、「庚申」は?
 HPを散策しても真光寺は上記概要とサクラの写真ばかり。サクラ名所にもなっているようだ。そんなHP群のなかに寺院建物の各所写真が載せてあるページがあった。そのなかに「
向拝懸魚は、桃の木?にぶら下がる一対の猿」というのがあった。「二猿」であることは気になるが、いまのところ「これかな?」としておこう。それにしても上のネットからの借用文のなかに「真光寺の分祀の庚申堂」とある。やはりほかになにかあるのだろうか?  

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