復活

おじんのつぶやき



  71.世界は分けても分からない(20.06.08)

 ある私が所属している同窓会の会員で facebook 「ともだち」関係になっているひとが10人前後いるが、そのなかのひとりの女性会員が、福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)を読み、新型コロナウィルス禍で歴史的事態になっている「今読む本だなと思」った、「PCRの研究開発のことなども詳しく書かれている」など、 facebook に長い投稿があった。私は、「いいね」をつけて、余り考えもせず、すぐに思い浮かんだのが同じ著者の本だったので、”私は、『世界は分けてもわからない』。”、とコメントしてしまった。福岡についてはメディアでも馴染みで思想傾向は大体は承知していたが、、たまたま同じ福岡の著書で私の蔵書は、同じ講談社現代新書、『世界は・・・』であったのだ。
 その後のやり取りで「注文した」などと返信があったので、あわてて「ウィルスのことは書かれてないです」としたのに、再返信が「この作家に興味があるので、問題ない」旨だった。
 さあ大変、何が書いてあったか忘れてしまっている。いま読書中のハイデガーを差し置いて、にわか読みで、真ん中を抜いて、先頭のプロローグと第1章、最後の方の第12章とエピローグを読んだ。
 ともあれ、何点かつぶやいてみたい。

1.連想 
 エピローグの最後の最後である4パラグラフ(274~275ページ)とその後のページのない追加パラグラフに対してである。
 第一パラグラフ。
 しかし今、顕微鏡下で時間の止まった細胞を観察している生物学者の眼は、その一瞬前も、その一瞬あとも全く見ることができない。絵は空間的にも、時間的にも切り取られる。そのとき私は、生命の動的平衡を見失い、生命は機械じかけだと信じる。

 
道元の『正法眼蔵』「現成公案」の次のパラグラフが連想される。
 たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後裁断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。


 
第二パラグラフ
 この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。つまり世界に部分はない。部分と呼び、部分として切り出せるものもない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。

 「連関」とか「一対多」というような言葉を見てすぐに連想されるのは華厳経であり、後に中国で大成されていった華厳宗の事事無礙の法界論理である。華厳経は、全体テキストを持ち合わせていないが諸入門本によると、いろんな章に一対多、一と一切、小が大であり一つがすべてである、的な内容があり、これらが華厳宗で世界の見方、関係の構造などが整理されていくのである。例えば華厳経第二番目の章、廬舎那仏品には、「一一の微塵の中に、一切の法界を見る」的な
 一毛孔の中に、無量の仏刹、荘厳せられて清浄に曠然として安住せり。・・・・・一塵の内に於て、微細の国土の一切の塵に等しきもの、悉く中に住す。

 この華厳の事事無礙という関係、重重無尽の関係、かつて勉強して、難しいがイメージとしてすぐ浮かぶ。

 
第三パラグラフ
 そして、この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、供し手と受け手があるようにみえる。しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、ほんとうの意味で因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。

 
上記第二パラグラフの続きで華厳の哲学、延いては仏教の哲学に対応する。最後の、「本当の意味で・・・しない」は、私の勝手な解釈かもしれないが、西洋哲学は、ここにきて漸く「実体主義」から「関係主義」には替わってきているが、まだ主観的なものと客観的なものとを分断して客観の側での関係の第一次性に立っている。物的世界像から事的世界像に転換が望ましい、要は関係性のなかに、物的=理、事=事として、この世界にはまだ理詰め部分を押し通しているところがある、とみた。

 
第四パラグラフ
 世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。

 
この自覚、自覚しているのと自覚なく世界をミクロ、ミクロに追及することと大違いだ。自覚している=哲学者。

 
追加パラグラフ
 ごく最近、私たちの研究室は(中略)現在、実験は進行中である。(中略)分けても分からないと知りつつ、今日もなお私は世界を分けようとしている。それは世界を認識することの契機がその往還にしかないからである。

 こういう形で科学(自然科学)は進歩してきた。当面、新型コロナウィルス禍の渦中であるからいろいろな新薬なり新抗体なりが研究・実験されている。・・・・・。しかし、「科学の進歩」は、…(問題発言は止めよう)。

2.新実存主義
 マルクス・ガブリエル、廣瀬覚訳、『新実存主義』(岩波新書)を拾い読みした。
 この本は非常に珍しいというか、変な構成になっている。ガブリエルはもちろん含んで5人の大学教授の執筆内容によって、それがガブリエルの著というようになっているのである。序論、2・3・4章が別の執筆者、1章がガブリエルの基調内容で、それに別の4人の学者が意見なりを提示し、第5章がガブリエルの「四人に答える」と、いかにもガブリエルには好都合になっている。他の4人は異論なかったのだろうか。こういう構成であることの説明も一切なく、読みだすのに、ガブリエルの著であるのに、最初の序論から別人の書いたものになっている。訳者あとがきの先頭は、
 「本書は Markusu Gabrier,Neo-Existentialsm.Polity,2018 の全訳である。」だからやはり全体はガブリエルの著だ。
(あらためて序論を仔細によんでみると、ガブリエルを含め調整されていたようだ、各人に他の人の言がでてくる)

 構成はともかくとして、新実存主義とは何ぞ?
 
「実存は本質に先立つ」として、人間とはすでにある何らかの本質に支配された存在では決してなくて、自分自身で切り開いていくべき実存的存在にほかならない、これがサルトルの思想であった。苦汁に満ちた第二次大戦が終わった時点での待望の世界観だった。ただし、「自分で人生を切り開く」、聞こえはいいが、私個人では異論ありだ。ともあれ、サルトル実存主義の時代はレヴィ・ストロースとの論争を通じてその狭隘さに筆誅を加えられ、構造主義の時代に置き換わっていっていた。

 それなのにここにきて、「新」はつくものの、再び「実存主義」を標榜しようとする背景は何ぞ?
 これが、前項の福岡の哲学観と物凄く通じるところがありそうだ。
 科学的に立証された事実に弓を引こうというのではなく、人間の心について自然科学が立証したこと、将来立証しうることについての、哲学的に誤った解釈を攻撃したいのだ。自然科学の哲学的に誤った解釈は、哲学者にも広く蔓延している(32-33)、という時代になっているらしい。

 存在するものはすべて、究極的には物質とエネルギーであり、したがってそれらは、最良の自然科学が研究する因果の網に織り込まれているとする「形而上学的自然主義」をはじめ認識論的自然主義(すべて自然科学で説明できる)、生物学的連続性(人間の脳、心は自然の秩序の一部、進化の枝の上に位置づけられる)など、そういう「自然主義」は失敗している、そして、 人間は本質なき存在であるという主張、 人間とは自己理解に照らしてみずからのあり方を変えることで、自己を決定するものであるという思想、である実存主義を、ポスト自然主義の時代の選択肢のひとつとして、新実存主義の名のもとに、心の哲学の中心問題を立て直すことを狙いとする、というのが背景といえようか。
 新実存主義は、反唯物論の立場にたって、また、「ニューロン中心主義」を標的にして、
 現象が生起するとされるもっとも大きな枠組みは、自然の秩序ではないわれわれの概念的把握に本質的に左右される現象を、自然科学の見地から分析される自然種の表現型としてひとまとめに考えるのは検討違いである(70)

 新実存主義とは「心」という、突き詰めてみれば乱雑そのものというしかない包括的用語に対応する、一個の現象や実在などありはしない・・・・・では、なぜ「心」という雑多な概念にさまざまな現象が包摂されるのだろうか。その理由は、いずれの現象、純粋に物理的な世界や動物界のほかのメンバーから、人間が自分を区別しようとする試みに由来していることにある(16)

 心的語彙は時代や場所によってさまざまなかたちをとるが、そうした語彙によって拾い上げられる一個の対象など、この世界には存在しない(16)

 福岡伸一は生物学的、物理学的に世界をなお、分けようとする実験進行中、だが世界がそれで判り切るということにはならないという自覚をもっている。

3.空間的・時間的スパン
 福岡の本で私にひとつ新しい言葉を提供してくれた。「パワーズ・オブ・テン」、10のn乗という意味の由。
 ここに転記して示しておきたいが、長いので止めるとして、凄く感動的場面だ。37ページの先頭から10行である。
 カメラが原寸を写し、フレームをズームアウトしていき、家を、町を、・・・・地球を、太陽系を、銀河系を。そして一転逆にズームインをはじめたら今までの経過を後戻りするだけに止まらない、原寸になった、次に臓器に、細胞に、・・・分子、原子、素粒子に。さながら恒星の周りを周回する惑星と同じ。こういうことが書いてある。
 パワーズ・オブ・テンが可視化(トリックとして明暗という物理学的事実が捨象されてるが)して見せたこの光景は大きな示唆を与える。カメラ画像は空間的だが、いわば空間的・時間的スパンである。
 漢字世界にも10づつで、万4、億8、兆12、京16、・・・、恒河沙56、阿僧祇64、那由他72、不可思議76、無量大数84
 10-1づつで、銭(分)-1、厘-2、毛-3、絲、忽、・・・・刹那、六徳、虚、空、清、浄 人間は西洋でも東洋でも「端」を探った。
 なお、古代インドにおいて、仏教外の宗教や哲学では理論のための理論が多く、形而上学的議論が横行していたが、釈尊は、「死後の世界」「宇宙の果ての有無」などは”無記”(一切応じず沈黙)を守りとおした。
 カントが同じことにどう判断したかはまだ勉強中でここでは措こう。端っこは必要がない。ただ、福岡氏はミクロの方の端に向かっての実験のなかで「世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからない」心境なのだろう。
 わたしにとって、このスパンが示す大事なものは原寸を基準とした「巾」である。空間的・時間的、そして私には独自的だが、意識的に、狭窄はいけない、鳥瞰的・虫瞰的でありたい、ということである。鳥瞰的については私は俯瞰的という。
 
 (その一) : 私の会社員生活は、年金資格が得られた、ということにのみ意義を感じ、会社員36年に比べ退職後の15年がはるかに充実したものと思っている。会社員時代は視野狭窄だったのである。新聞も経済紙、歴史も会社や仕事に関係することばかり。その結論として自分が属していた大会社の位置づけ、日本のなかでのそういう経済界の位置づけ、世界における政治・経済的位置づけについて、いまとは真反対の位置にいて、而して「失われた36年」とも思えた。自分の位置づけについて、時間的・空間的というよりも私流に「意識的に」俯瞰的でない状態であった。
 大学では経済学部に属していながら、そして受講学科としてはマルクス経済学的なものを選択していながら、技術的な科目としての、まず経済原論がマクロミクロあるとしても近経のもので、マクロ的制度的にものを見るマル経的見方ができていなかった。平川克己、内田樹、水野和夫、白井聡などの著書に馴染みを感じている。経済より平和・環境・平等、・・・・。
 ただしこの点は、ハイデガーを勉強していると、日常的な世界内存在において他の人々との「共存在」に根ざして、人間が他の人々の意向に左右され支配される、”ひとは”とか、”世の中一般は”というような在り方は一つの典型的在り方で、実在性が希薄化しているのではない、というようなことが書いてある。「存在免責」、でもやはり私は良しとしない。

 (その二) : 冒頭に書いた同窓会の別の会員が近ごろ本を出した。『時代の「見えない危機」を読む』(慶應義塾大学出版会)、560ページほどの大冊である。副題:迷走する市場の着地点はどこか、そうです、これは「投資」に関する哲学、経済・金融史、スケールを大きく広げた現代経済・金融論なのだ。
 私は投資はやらないし、上述したように、経済優先ということに同調できない立場なので、序章だけを読んで書庫に収めた。
 私がこの本をすぐに購入に至ったのは、同じ同窓会の会員の出版であることに止まらず、アマゾン宣伝に出ていたのかどこにあったかは定かでないが、”鳥瞰と虫瞰の視点から歴史と市場を捉える”という文言につられてであった。
 著者は歴史の重要性を解き、ヘーゲルの箴言にも及んでおり勉強しているなという感を強くしたのだったが、それ以上にフェルナン・ブローデルの歴史学に言及していることだった。ブローデル『歴史入門』(中公文庫)は、私は一度に間違って3冊も買ってしまったという余談はともかくとして、空間的・時間的歴史の三層構造を描いたもので、会員の著者はほぼ対応させて長波・中波・小波の思考方法を前面に出している。
 長波:鳥瞰的、小波:虫瞰的の意図であろう。いつか機会があったら、最後の章、「ポスト爛熟資本主義を読む」を読んでみたい。資本主義の、”自壊”とか”破局”とか”終焉”、とかのうたい文句の本を(期待をもって?)入手はするが、一方では、ブローデルの『歴史入門』では、資本主義の頑強性こそが語られているとも見える。

 福岡伸一の『世界は分けてもわからない』を起点として長々自然科学的、社会科学的、いろいろ雑多につぶやいた。
 以降は、もう一度ハイデガーに戻り、そののち何とかもう一度カントを勉強したい。

 

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