復活

おじんのつぶやき



  7.仏教勉強関係覚書-Ⅱ(16.8.10)

 前号「仏教勉強関係覚書-Ⅰ」で2次サイト中断後を整理しようと意図してページを作ったものの、その後が一向に進まない。そうこうしているなかで身辺に積み上げられた本は次第に多くなるばかりだ。どこかで書いたが、「わざわざ整理する必要もないじゃないか、読んで満足、もうそれでいいじゃないか」という自分と、昔根性で、「読んだものを整理しておきたい、整理するなら読後間をおかずに実行しないと加齢に伴う記憶力衰退においつけなくなるよ」というもう一人の自分がせめぎ合っている。まさに後者の位置にいま接していて苦闘している状態といえる。

 まったく思いつきだが、いま身辺に十数冊ある本、これが「何が誘因となってここにあるのか」、という観点で順序不同で書いたら如何?、ウンそうしてみよう、となった。以下の進行未保証である。

① 『道元禅入門』榑林晧堂(大法輪閣)
 2か月に一回の都心病院への通院で神田神保町の古本屋街を通ることにしている。かつては数店舗見て歩いたが最近は「東陽堂」に直接行き、そこで殆ど必ず少し仕入れる。ここでの観点は「せっかく2か月に一度来ているのだから少しは獲物を」という意地汚なさも加わって店頭配置のものを(店内配置のものを購入したことはない、高い)はじからはじまで2回くらい隈なく見て、その前日までの読書状況からは切り離され大きな見地から2~3冊仕入れて来るのが通例だった。仏教本専門店だから当たり前に仏教関係本になるが、哲学・思想本、歴史本なども混じっていることがあり購入したこともあるかもしれない。
 ともあれ、この本、一度通読が終ったものだが、まだ手許から離れないものだ。特に、道元は、「さらに焼香・礼拝・念仏・修懺・看経をもちゐず、・・・」と弁道話はじめ各所で言っているが、『正法眼蔵』には「礼拝得髄」「看経」「仏教」「仏経」等々がある。「陀羅尼」巻にも“しるべし、礼拝は正法眼蔵なり。正法眼蔵は大陀羅尼なり。”などとある。『正法眼蔵』そのものをとても全部読み且つ理解するなど及びもつかない私にとってどうしても座右に必要なものと感じられ手許から離れないのだ。

② 『禅の今日的発見』-現代人のための禅入門-佐橋法龍(日本実業出版社)
 この本も多分上記①と同じ時に入手したと思う。この佐橋法龍という人の本は、いまこの身辺十数冊のなかの一冊として『禅の思想』(雪華社)[もう後掲しない]があり、また、一時「公案」に及んだころ2冊の『全訳 碧巌録』が書棚にある。この本には、榑林晧堂の「非思量」に関する記述に、「こういう超論理的な文章を書いて平然としている禅学者の感覚が私にはわからない」などという辛辣な記述もあるが、前記雪華社の本の副題が-「正法眼蔵」の基本思想-となっているように、前①と併せ、もっともっと『正法眼蔵』を理解したい、道元の禅は、只管打坐というものの、「座る」だけではない、「生活全体」をいうようだ、というようなことをもっと確たるものにしていきたいという想いで「身辺に有る」のだと思う。

③ 『生命の海<空海>』宮坂宥勝・梅原猛(角川文庫ソフィア)
 この本は前号で書いた。まだ身辺に置いてある。発端は原始仏典に係わっていたころ宮坂宥勝の『真理の花たば 法句経』に感じ入り、宮坂宥勝という著者名の繋がりでこの本に及んだ、と。そして宮坂宥勝、更に渡辺照宏、こういう方たちが何故「密教」に行きつくのだろうか、と。
 私は前号で、この本により空海に、さらには真言密教に惹きつけられる想いは全然なかったけれども、真言密教とはどういうものかという「辞書的・辞典的」に使えるような感触を覚えた、とした。
 この本からは前号で書かなかったもう一点の覚え事項がある。最澄との関係である。別の何番かで後述するつもりではあるが、この本は当然ながら空海が主役である。
 読み終わって、それでは次にと『絶対の真理<天台>』田村芳郎・梅原猛(角川ソフィア文庫)に及んだがこれは見当違いだった。途中で挫折している。そもそもこの仏教の思想シリーズは、インド、中国、日本に各4冊ずつ配分され、天台は中国篇に配分されていたもので、智顗の教相判釈(五時教判)は原始なり初期・根本仏典を阿含部として軽んじしめるのに決定的影響力を持った(増谷文雄『根本仏教-阿含経典講義』筑摩書房)というものでいずれは勉強しようとしていたところだが、現実は頓挫している。
 しかし、日本天台の祖・最澄との交流、そして疎遠になっていく過程が、サラッと書かれているのだろうが、空海を贔屓目にみているという感が否めなかったのが次に繋がる機縁になっていたことは事実だ。

④ -1 『正法眼蔵第一 現成公案』武蔵野大学サテライト教室 25年度後期 中野東禅先生の講本
  -2 『現成公案を語る-今を生きる正法眼蔵講讃』榑林晧堂(大法輪閣)
  -3 『正法眼蔵 ありのままを生きる-現成公案の巻』酒井得元(大法輪閣)
  -4 『正法眼蔵入門』森本和夫(朝日選書)
  -5 『道元の思想 大乗仏教の真髄を読み解く』頼住光子(NHKブックス)
 「現成公案」については過去何回言及したことか。旧サイトの宗教・仏教・道元カテゴリーの145号は「再び三度(みたび)「現成公案」冒頭」であった。そのときも言及していたが、上記①で榑林晧堂の語り口に共鳴したことと、武蔵野大学の講座で期待していた「現成公案」が何の印象も残さず終わってしまっていたことが絡みついて、まさに「三度、四度(よたび)「現成公案」冒頭」といったところである。
 上記の-4は「現成公案」巻について、西有穆山師と安谷白雲師の解釈ちがいなどを中央に据えて森本本人や他の何人かの人の説を交えこの一つの巻についてだけで1冊の本とし、それをもって『正法眼蔵入門』としているものである。95巻全部が現成公案だともいえ、第一の「現成公案」巻が特に大事とはいえ、私には「正法眼蔵入門」と表するなら上記①の方がはるかに適切と思うのだが、その点はここでの論点ではない。
 「現成公案」の分類は十四段で説明される。
 第一段、第二段も難しいがまあいいやと通過しても第三段でいつも躓く。第三段は、
 
仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。である。とくに「しかもかくのごとく・・・」で躓く。
 -1の講本は「生仏あり」を受けて、「しかあればこそ(人の心は、煩悩と悟りに目覚め葛藤して)花が散れば…、と訳している。「だからこそ」と私の鉛筆書きがある。後ろに、「その視点からの生き方は花に心が動き…が、それは苦悩としての動きではない」という別注がある。
 -2の榑林は長い解説だが、「次元の高い一元の世界」の前文からここへ来て、「理としてはそうであるけれども、現実としては、」としながら、後ろに進むと、「こういうわけだから、愛惜するのは我々の感情であり、棄嫌するのもわれわれの感情である。」、「「しかもかくのごとくなりといえども」とは、しかもかくのごとくなれば、という意味です。」、「感情にとらわれず、もう少し次元の高い生活をする、自分の気持ちを高いところに置けば、いろんな人生の問題はかなり緩和されていくことになるわけです」
 -3の酒井は、あまり長くなく、「こういうことを踏まえて現実の生活をしている。そうしますと、現実生活がまた格別な意味となってくる」
 -5の頼住は、ちょっと長くなるが、「かくのごとくなり(=豊倹を跳出)といえども……」と、無分節であるにもかかわらず分節があると言われる。つまり、無分節と分節とは、順接と逆接とで同時に連結されているのである。これは、無分節と分節との間の、相矛盾した二重の関係を表している。無分節と分節とは、現れた事態としては、対照的なものであるから、両者を逆接で連結するということは理解しやすい。しかし、道元は、両者を逆接で連結するだけではなくて、順接でも連結する。……。
 そこで以前にも取り上げた-4の森本をもう一度見てみる。もうここで安谷『参究』は「なりといえども」を「なれば」という西有『啓迪』は勘ちがいといわねばならぬ」と見解の対立を示し、森本は、この語は「上を受けて転ずる語」で、その転語は「不必何必」で、…… 一義的な論理的関係によって、それにつながるものではない、つまりたんなる逆接の関係でもなければ、たんなる順接の関係でもない。ある意味で順接の関係であるといえるのは、……     いやはや道元の文はこのように難しい。「現成公案」もまた中断だ。

⑤ 『最澄と空海-日本仏教思想の誕生』立川武蔵(角川ソフィア文庫)
  『老荘と仏教』森三樹三郎(講談社学術文庫)
 2冊とも8月初の病院に行った際に新本として購入したものである。上記③の成り行きからその意とするところは公平な最澄観である。現在読み進め中である。
 下のものはとかく中国仏教・日本仏教に影響力を付与してインド仏教からの変遷をもたらしている「老荘思想」を勉強してみようというものである。

⑥ 『禅に聞け-澤木興道老師の言葉』櫛谷宗則編(大法輪閣)
  『やさしい密教』宮坂宥勝(成田山選書)
 2冊とも8月初の東陽堂での購入図書である。2冊は性格的には違うが、両者とも読み続ける性格のものではない。前者はベッド横の書棚において無造作にページを開き味わうもの、後者は上記③以上に図や写真があって辞書・辞典的に複雑な密教についての知識が必要になった時に「調べる」的に見るもの。しかし、くれぐれも根本煩悩の<慢>に陥らぬよう、あるいは随煩悩の<憍>に陥らぬよう、要は、他人に対して「おごる」考え方からではなく、自分の生活に活かせるものかどうか、自分のこころを豊かにするようなものであるか、というような観点で今後の勉強も進めていこうと思う次第である。


 少しページが長くなったが、この整理をすることによって十センチ以上の厚みで机上に積み上げられていた本を少し本棚に戻せるようになった。それぞれの本の性格によって所定位置に戻ってもらおう。

 当面手許近くに置く本は、⑤の2冊と①(道元思想を再読、再読でもっと身につけたい想いがする)だ。
 また、因陀羅網の繋がりでまた別の本が机上に積みあがるのも必定だが、この繰り返しとなるだろう。
 
 

TOPへ 戻る