復活

おじんのつぶやき



  67.J・J・ルソー思想への共鳴(19.02.17)

 いま、武蔵野大学社会連携センター三鷹教室での哲学に関する講義ではルソーをやっている。
 2月の回の前に既に第65号で「私の哲学観」などと大それたページ名を付してつぶやいた。当月13日、2月回の受講を経て、第65号と重複することもあろうが、もう少しつぶやいてみたい。

 『人間不平等起源論』のなかの「自然状態」にからむ諸々の感想である。

1.老荘思想との対比において

 いわゆる「老荘思想」ないし道教なるものをもっと勉強したいと思ったものだが、少ない書棚から関係書籍を漁り、「自然状態」の、この中国思想との一面(本格的対比ができるだけの度量はもちあわせない)での酷似を想う。
 
 『老荘と仏教』(森三樹三郎、講談社学術文庫)での老荘思想の説明では、老子の思想は孔子の思想のアンチテーゼ、『老子』全編が孔子の教えに対するアンチテーゼだという。
 中国国家の形態は村落共同体とその上に、それから収奪するだけの大きな政治形態を形づくっていたが、理想的社会形態として、儒教は大きな国家形態の方に、老子は村落共同体の方に認めたという。老子は小国寡民章で、「国土は小さく、人口は少ないのがよい。たとえぶんめいの利器はあっても、用いさせないようにするのがよく、民には生活を大切にさせ、遠方に移住させないようにする。舟や車はあっても乗らせない方がよく、兵器はあっても用いさせないがよい。また上古のように縄を結んで約束のしるしとする習慣を復活させ、文字を不要とする。現在のままの衣食住に満足させ、従来のままの習俗を楽しむようにさせる。このようにすれば、たとえ鶏や犬の鳴き声がきこえてくるような近い所にある隣国とも、生涯にわたって往来することがなくなるであろう」(大意)と言っているそうだ。
 一面、ルソーの「自然状態」を言っているのではないかと戸惑う。またルソーの、ジュネーブという当時の小単位の国家を想う気持ちにも通じる。
 司馬遷はこの老子の小国寡民説を批判して、こんなユートピアは実現不可能だとしたというが、これも、あたかもディドロやヴォルテールが後年ルソーに対して浴びせた非難や誹謗中傷のようなものにも通じると感じた。

 また、養老孟司は、中国思想について、「自然とつきあう思想は老子と荘子による老荘思想であり、世間とつきあう思想が孔子と孟子に代表される儒教である。儒教は都市イデオロギーそのもので、いわばそのアンチテーゼが、老荘思想となる」としている(『いちばん大事なこと』集英社新書)。
 養老のこの本は、環境問題が戦争や経済にもまして重大性を帯びている問題であり、最大の政治問題という観点からの本格的「環境論」、自然という複雑なシステムとの付き合い方を論じたものだが、同調すること大であった。

 また、『タオ自然学』(F・カプラ著 工作舎)は、タオの「極楽」ともいうべき世界を良く表す言葉ということで『荘子』の次の文章でタオイズムの章を締めくくっている。
 「昔の人は、すべてが混じりあって区別なく、世をあげて無為自然の静けさを保つことができた。このようなときには、陰陽はなごみ、静かであり、鬼神もさわがず、四季の移りもきちんとして、万物は傷つかず、生きとし生けるものは若死にすることがなかった。人びとは知があっても用いようがなかったのである。このような状態を至一、完全な一体という。このときには、誰にもはからいがなく、つねに自然のままであった」。

 なお、仏教的観点からは第65号で、原初追求、スタート地点としての「空」「無」について少し触れたが、補足すると、
 この現実世界は煩悩や業によって誤り、罪悪や不道徳に満ちておりどうしても否定されざるを得ない、これが空観の哲学なのだが、否定だけで万事解決するわけでなく、否定から肯定への転換が、「色即是空」から「空即是色」、「真空から妙有へ」ということにほかならない。苦の世界から逃避するのではなく、逆にこの世へ帰ってくる、これが大乗の思想で、このことがそっくり「十牛図」思想に見られるわけだ。十牛図とは、迷える自己が、真の自己を探し求め、十の段階を経て、真の自己をみつけていく過程を表しているのだが、「自己」を「世界」と言い換えれば、まさに世界を正しくみて対処しようという思想になる。
 これらの出発点の「空」「無」は、「自然状態」ともニュアンス的に似ているとみれば、人類が堕落、邪悪になっている現実世界に対し、仏教は、宗教としてこの世を「よかった」に蘇らせようとするのに対し、一見、循環してまた異次元な「自然状態」に対し、ルソーはここに至るまでを縷々説明(証明)し、「社会契約」論に繋げていった、いかにも変な個人的見方だが、つぶやきだから許していただこう。

2.「6」の循環

 重田園江『社会契約論』(ちくま新書)での、『人間不平等起源論』を通してのルソーの歴史観を“「6」の字の歴史観”として示してくれているのは面白い、というか分り易い。
 講義で先生は、板書で4つの円を左から右へ向かって描き、左端を「自然状態」とし、右端を「社会状態」「文明」「不平等」「悪」など文字を書いて示された。重田も“大きく4つの段階を見出すが、それについてはここで詳しく述べる余裕がない”、としているし、私も『人間不平等起源論』を読んでいても、いろいろなキーワードらしきものには出会うものの、どこを切れ目として4段階としたらよいかは、定かにはできなかった。
 例えば、“自然から贈られた才能をほとんど活用できず、自然からなにかを奪い取ろうなどと考えるにはほど遠い動物の生活”(p96)以前を第1段階として、続く、“やがて” 以降の、さまざまな存在者との関係性のなかで知覚が芽生え自分の身を守る配慮をするようになったのが第2段階?、この段階の様々な交渉のなかで進歩の速度が上がり、小屋、家族、ある種の所有(p100-101)あたりが第3段階?、そして、“新しいパン種の発酵によって、幸福と無垢にとって不吉な合成物”(p104)がつくられ、“平等は消え失せ、所有権が導入され”、この大変革をもたらした、“冶金と農業という二つの技芸の発明”(p107)、あたりからを第4段階としているのか?。
 あるいはこの第4段階をも少し分け、1~3段階をどこかで統合しているのか?。

 ともあれ、最後の姿は「専制主義」であって、“不平等が行きつく終着点であり、円をグルッと回って一周し”、“新たな自然状態へと連れ戻される”、それは、“すべての個人はふたたび平等になる。というのも、すべての人は無だからであり、……”(p139)である。
 私は、訳語であるとはいえ、「無」という語が使われたことに一種の仏教がらみの感動を感じるのだが、それは余談で、講義中の対話のなかにあった「円環」はこの部分に由来するものだろう。
 この円環に関して重田の『社会契約論』の163ページの絵(図)は面白い。甲府から中央線上りで新宿にきて山手線内回りで一周する。甲府は「自然状態」、最初に着く新宿は「政治社会の形成」である。そして運行線脇には、甲府・新宿間には「文明化」、山手線脇には順に、「繁栄」、「腐敗」、「堕落」とあって、新宿に着くときは、「円環が閉じて… 新たな社会契約」である。アラビア数字「6」の字を横に寝かせているのだ。
 4段階説はそれぞれどうあろうと、ルソーの全体的歴史観、そして円環の考え方は十分分り易い図だと感心した。

3.なにも起こらないことはすばらしい

 養老孟司の本には度々、「なにも起こらないことはすばらしい」旨の記述がある(上記『いちばん大事なこと』参照)。歴史の特色は、歴史が「起こったこと」の連続として書かれていることにあるが、われわれの日常生活を考えれば、毎日事件が起こらないように注意している。「なにも起こらなかったこと」をつなげても歴史は確かに書けない。
 そうするとこれは現実を誤解させる恐れが強い。特に「平和」・「自由」・「安心」・「民主」というような観点にたった時だ。
 「改善」「改革」「革命」、さらには「前進」「進歩」……、これらのための「人為」=何かを起こしていること=事件は上記を損ねてはいないだろうか。平穏を壊しているのではなかろうか、そんな風にも考えられる。

 このことから連想されるのは、第65号でも書いたが、サルトルがカミュとの論争を経てレヴィ=ストロースにより粉砕された、という〈間違っているかもしれないが〉、『寝ながら学べる構造主義』(内田樹、文春新書)から私が得た知見だ。
 歴史を、未開から文明へ、停滞から革命へというように単線的審級とみなすことに、『野生の思考』の著者レヴィ=ストロースは、サルトルの、自分が「文明人」であり、世界の成り立ちについて「客観的」な視点にいると思い込む誤りに筆誅を加えたのだ、私はそう理解している。何も起こっていなくて歴史に刻まれていない「平和・自由」な地域があることを認識すべし、である。自分たちを文明人だから平和・自由だと過大評価してはいけない、である。
 
 またちょっと違う観点になるが、ブータンの平和度についてのことも連想される。これもすでにどこかで書いた。



 現実は、ルソーの時代からさらに時は経過しているが、悲憤慷慨案件は山積している。「戦争」ということもあったが、様々な人為は問題を産むばかりである。地球環境問題、人口問題、南北問題、……、格差問題、憲法問題、沖縄問題、……。
 数直線上で右向きばかりでなく、一歩立ち止まり、振り返ってみて左も見てみるべきである。
 ともあれ、ルソーに関してはまだ講義は続いている。『社会契約論』もやるだろう。一般意志、特殊意志の話もあるかもしれない。ヒュームとの話もあるかもしれない。『エミール』は、その内容により逮捕状が出され、焚書宣告が下されたのだが、私はその「消極的教育」には同調するところもある。『新エロイーズ』や『告白』などは文学作品である。
 忘恩、錯乱、狂気、迫害妄想、…、いろいろ言われようが、あの時代にあって、この現在でも現存する問題を「考えさせる」こと、凄いことだと思う。

 正直なところ私は哲学者は、大学入試時の「世界史」上の「知識」としての吸収が主だった。この度、曲がりなりにも『ソクラテスの弁明』や『デカルト「方法序説」』や『パスカル「パンセ」を楽しむ』など少し哲学者に近づいた。ルソーに関しても数冊用意した。これからは、哲学者の生き様や著作から「知識」でなく「智慧」を得ていきたい。
 まだカントあり、様々な「現代哲学」あり、である。難しいだろうと思う。2019年度春の期もこの哲学講座に仏教関係での加わった3講座を含めて4つの講座をすでに申込んである。
 

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