復活

おじんのつぶやき



  66.「68年」補足(19.02.03)

  以前、第56号で、ちくま新書、絓(「すが」と読むらしい)秀実、『1968年』という本について、“読み続けるだけの惹きつけるものがなかった”、と書き、そのページの下に、【後日の追】として、別の『1968年』という本(中川右介、朝日新書、2018年第1刷)を見つけたので買ってしまい一瞥したが、“内容は「私にとっては」絓の本以下”、と感想を書いた。そして、
 “それにしても新書版で特定の「年」を題名とする本、しかも2つ、他にもこんなことがあるのだろうか?”、とした。
 しかしそれでページを終わらせていないで、さらに、【再・後日の追】として、“小熊英二にも『1968年』 上・下2冊の大冊がある。興味はあるがいまのところ手がでない”、でやっと第56号は終わらせていた。
 
 1968年は私の大学卒業・社会人初年であって、自分としては転機だったには違いないが、同時代を生きて、書名に、しかも全然別の人になる3種もの『1968年』があるということに不思議観をぬぐえなかった。
 小熊英二は我が母校大学の教授にして朝日新聞の論壇時評を書いており、少なからず関心はあったひとである。
 今回、この、小熊英二の大冊2冊の『1968年』はあきらめていたが、同著者の、新書大賞2013第1位と名打たれた、『社会を変えるには』(講談社現代新書)を入手した。これは「デモをする社会」の可能性を探った本とされているが、「第2章 社会運動の変遷」「第3章 戦後日本の社会運動」の2つの章には盛んに「68年」(縦書き本だから「六八年」、以下の表記も全て原本の漢数字を普通数字表記とする)と括弧つきの68年が出てくる。しかし括弧なしの68年もある。
 今までの不納得感も拭えていないので、注意して読んだ。しかしやはりいまひとつ、である。
 ともあれ、メモとして関係個所を抜粋しておこうと思う。68年関係だけフォントを替えてみた。

第2章 (“この章では、先進国の社会運動がどういうかたちでおきてきたかを、ざっとながめてみましょう”、を要注意)

 1960年代から70年代には、のちに「新しい社会運動」とよばれた動きが台頭します。これが、工業化社会後期の運動となります。
 その中心になったのは、画一的な社会にがまんならない若者や女性、芸術家などでした。西欧諸国の場合だと、
「68年」の学生運動、女性解放運動、エコロジー運動などがその例となりました。 (p67)

 
「68年」とポスト工業化社会  (小題) (p79)

 緑の党は、いわゆる
「68年世代」の元活動家が、中核にいたグループでもありました。そのため「68年」の学生叛乱が、「緑の党」をはじめとした新時代の社会運動の始まりであった、という印象を与えました。
 しかしここで重要なのは、それだけでなく、
「68年」はポスト工業化社会の前兆だったという印象を与えてもいたらしいことです。73年の石油ショックで、不況とポスト工業化社会への移行に直面した西欧では、「68年」がその前兆だったのだ、と受け止められたとしても無理はありません。 
 ただしこれは、よい意味ばかりだったとは限りません。当時の保守派の人たちは、ポスト工業化社会への移行にともなう、いろいろな変化にとまどっていました。その犯人とされたのが、移民と
「68年」だったようです。[……]これは移民が入ってきてからだ、「68年」の若者たちが自由だの性解放だのを叫んでからだ、というわけです。
 アメリカでも[……]そのIT技術が雇用と家族の不安定を招いたのだ、すべて
「68年」から始まったのだ、というわけです。
 もちろん
「68年」の運動が、直接にそうした社会変化をもたらしたわけではなく、一種のイメージです。しかしこうしたことが、よくも悪くも、いまでも「68年」が注目される背景であるようです。 (p80-82)

 日本の製造業の就業人口が、農林水産業の就業人口を抜いたのは1965年で、その後も92年まで伸び続けました。つまり日本の
「68年」は、農林水産業がまだまだ多い初期工業化の時代から、製造業中心の後期工業化社会への移行期におきた、といえそうです。
 これは西欧やアメリカの
「68年」が、工業化社会からポスト工業化社会への移行の前兆だったと位置づけられているらしいのとは対照的です。 (p83)

第3章 (“この章では、戦後日本の、とくに60年代から現代までの社会運動の歴史をふりかえります。そのなかでも「68年」の学生運動は、その後の社会運動のイメージをかなり規定したところがあるので、少しくわしく説明します”、を要注意)

 日本の「68年」にこうした倫理主義がどう影響したかについて述べます。
 1969年2月に、全共闘運動の渦中だった東京大学で……全体に非常にまじめで、……これは青年らしい理想主義の表れ…… (p96)

 
1968年でも、日本では大学が大衆化してからまだ日が浅く、まだこうした意識が残っていました。…… (p97)

 他の先進国の
「68年」には、こういう倫理主義は、それほど強くは見られなかったようです。 (99)

 次に日本の
「68年」について述べます。このころから、日本は工業化社会の成熟段階を迎えます。そして「68年」は、運動の基盤、運動の形態、テーマのどれも、60年とはかなり違っていました。
 まず高度成長の影響で、共同体が緩んでいきました。地方では農業の機械化が進んで、村人が協力して農業をする必要がなくなります。そうなると労働力が余って、出稼ぎに出る人が多くなり、ますます地域社会が緩みます。 (p114)

 教育学の学説では、進学率が15パーセントを超えると、学生はエリート層ではなくなって大衆化するといわれています。日本で15パーセントを超えるのは1963年です。
 ただし、まだそれを超えたばかりだった
1968年は、いわば過渡期でした。一方では大衆化も進んでいながら、いっぽうでは使命感や倫理主義も残っていました。 (p117)

 例外はありますが、西側先進諸国の
「68年」をになったグループは、マルクス主義を掲げていたとしても、前衛党型のものはおおくありませんでした。思想的にもアナーキズムに近いような、自由な思想と運動形態のものが多かったようです。
 しかし日本のセクトは違いました。…… (p120)

 60年代にずっと学生運動が盛りあがっていたわけではありません。60年代半ばはどん底で、高度成長でマルクス主義は古くなった、学生運動はもう終わった、ともいわれました。
 しかしそれが突如として、
68年から盛りあがりはじめます。その理由は当時から謎とされていましたが、最大の原因の一つは、大学の大衆化そのものでした。 (p122)

 60年代の日本はまだ貧しさが残っている時代でした。一方で高度成長が急激で…… とまどいと「うしろめたさ」が……
 
1968年ごろに大学に入った世代だと、1950年代に小学生で、そういう価値観のなかで育っていました。農村で…… (p125-126)

 アメリカの一極支配は快くない……日本でもそこに学生の不満や高度成長への違和感が結びつき、各地の公害反対運動や住民運動の機運とも連動して、世界的な
「68年」のなかで運動が広がっていきました。 (p131)

 すでにおわかりのように、
「68年」の運動は、60年安保とかなり動機が違っていました。
 運動のテーマというものは、「これがいけないから反対」というだけでは……ような日常的な感覚と結びついたときに盛りあがるのです。
 それは60年安保も
「68年」もそうです。単に安保反対…人は動きません。…
 では
「68年」の社会基盤と設定はここまでとして、つぎは運動のやり方や組織形態について述べます。 (p134)

 全共闘は、
1968年の5月から6月に、日大と東大で、学内問題から自然発生したものです。日大の場合は……どちらもマルクス主義にも革命にも直接には関係ない…学生が抱いていた大学や社会への不満に結びついて、運動が広がりました。
 ところが自治会が機能していない。それで、有志参加の「全共闘」を作ったわけです。 (p135)

 こういう運動を促進したのが、メディアの発達です。ガリ版印刷機が普及し、……
 日本の
「68年」を盛りあげた市民運動のベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)も、似たような形式でした。 (p137)

 しかしこういう人たちは、60年より数が増えてきたとはいえ、まだそれほど多くありませんでした。結果として、
「68年」は60年安保のように「国民運動」にはならず、学生中心の運動にとどまってしまいます。 (p138)

 そういうわけで、いわゆる
「68年」としてイメージされる学生や市民グループ……1968年11月に主だったセクトすべてと…二万人…ベ平連も二万人から……
 2011年3月からの脱原発デモでは、組織的動員がないものが、万単位の規模でほぼ毎月 … 単純な比較はできませんが、組織動員のない自由参加の数からいえば、
「68年」を超えたのではないかと思います。 (p140)

 倫理主義の弊害  連合赤軍事件  (小題)
 こうして日本の
「68年」は終わったわけですが、このときはこのときは60年安保ほど、政府や自民党が運動を深刻に受けとめた形跡はありません。騒いでいるのは学生だけだ、彼らも…… (p146-154) 

 70年代から80年代へ   (小題)
 
「68年」のことを長々と述べましたが、70年代から80年代はどうだったでしょうか。一言でいうと、… (p155)
 日本の60年代末でも、…見物人のほうが多いぐらい…
1968年10月の新宿騒乱のように暴動になったり…
 
1968年当時の東京は、進学や…… (p156)

 また全共闘運動の背景にあった、豊かさに慣れていない、急激に経済成長して違和感がある、という感性も消えていきました。つまり日本の
「68年」というのは、日本が発展途上国から先進国になる過程の流動期、不安定期におきた動乱でもあったわけです。 (p158)

 
もともと主題が違う本であるのだから、その点は頭に入れて臨んだにしてもこれだけ「68年」ないしは1968年が頻出しているのだから同著者の上下2冊に亘る『1968年』の概要は判るかもしれないと詳細に抜粋してみた。

 私は、60年代にずっと学生運動が盛りあがっていたわけではありません。60年代半ばはどん底で、高度成長でマルクス主義は古くなった、学生運動はもう終わった、ともいわれました。しかしそれが突如として、68年から盛りあがりはじめます。その理由は当時から謎とされていましたが、最大の原因の一つは、大学の大衆化そのものでした。 (p122)  
にちょっと異論を感ずる。
 

 小熊英二は1962年生まれ。1968年にはまだ6歳である。著書はその後の研究から生まれたもの。
 それに対し、私は該当の同時代を生きてきた。60年安保には高校1年生として全校生徒市内静かな行進という形で関わったのだから著者の言う「国民運動」だったというのは理解できる。ただ、著者の「68年」は事象的には西欧にしても日本にしても「学生運動高揚」を主に前後諸事象を加味しているようだが、自分としては昭和39-43年=1964-1968年を大学生として過ごし、1965年の1-3月は学費闘争への参加でバリケード封鎖や全学集会への度重なる参加などは何だったのか、また2学年時中心だったと思うが、日韓会談反対かなにかで国会デモに参加し、自身は別としても機動隊との対決の中での血にまみれた仲間たちをみた、あの経験はなんだったのだろうか、と回想する。
 しかし、俯瞰的にみれば「小さい」学内闘争、「小さい」デモだったということだろう。そう解釈するとしよう。

 ちょっと観点が違うが私は、 まず高度成長の影響で、共同体が緩んでいきました。地方では農業の機械化が進んで、村人が協力して農業をする必要がなくなります。そうなると労働力が余って、出稼ぎに出る人が多くなり、ますます地域社会が緩みます。に非常に実感する。
 1968年に限らず、このころが「後期工業化社会への移行期」ということには同意できる。

 私の故郷、自然豊かな田園であった居所のある段丘の下に広がる梓川左岸地域は、私の大学生時代に構造改善事業で全くそっけもない平板な、とても子供が飛び回り遊ぶような地ではなくなった。父は農業委員としてこの事業に大きく関わっており、私自身も夏休みにはその事業の末端で人足として土方アルバイトもした。一部住宅地と化した一帯は新住宅新人類の地となり、旧来の伝統的なお祭りはじめ諸行事は廃れる一途だった。

 私には、「経済成長という病」「都市化という病」等人間の「こころの豊かさ」を脅かす事象への問題意識や、ルソーを勉強していて、『人間不平等起源論』から、自己保存原理と憐みの情だけの野生人の自然状態から、「社会」ができ、文明のうちに人間は一途に堕落していったなど人間論、世界論哲学知見への関心が続いていることを喜ばしく感じている。
      

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