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おじんのつぶやき



  65.私の哲学観(19.01.29)

 前回(1月7日)の武蔵野大学社会連携センター三鷹教室での受講講座【西洋哲学への森へ】は、多分今月の回は10回目に当たるのだろうが、ジョン・ロックのあたりからだった。
 (年を4期:春・夏・秋・冬号で毎月1回の連続講座になっているが、別の用件との関係で半分くらいしか出席できていない)。
 ロック『人間知性論』の(多分第2巻)中の、“心は白紙(タブララサ)。観念はすべて経験から” が、デカルトが物心(心身)二元論で大陸合理論哲学の流れの先駆者となったのに対し、イギリス経験論哲学の先駆的位置を占めることになったということが主な内容であったが、私はこの2時間の講座のなかから2点、自分なりの感想を得た。

 その一つは、先生の資料のなかに我が高校同期生のロック原書訳書を発見、そのことからの発展的なことで、前号(第64号)でつぶやくことになった。

 そして二つ目は、講座では「タブララサ(白紙)」論から「経験」をキーワードにして、西田幾多郎の“純粋経験”や阿部次郎、三木清などに及んだが、私は、同じ「タブララサ」から、あらためて「哲学」とは「根源」に行って、またそこから考えてくるものなのだな、ということを痛感したことだった。

 ある哲学書に書いてあって私の個人的勝手な哲学理解となっているが、
 「哲学は、世界がどうなっているかを考えるのでなく、“世界像をつくりだしている人間”について考える学問」
で、なんらかの、“世界像の危機、人間像の危機” から起こってくるもの、即ち危機問題意識が前提的に必要な学問、と理解したいと考えている。世界像について、そして人間像:これは自分についても含まれその部分の方が大きいのだが、問題を感じている、いま考えれば問題だった、というような認識があることが前提になり、この認識が持てない人は「哲学なんて」と言う事になるだけだ。
 私はいまの日本でいえば安倍政治、さらには世界的に平和問題、環境問題、南北問題等々いろんな面に危機感すら感じているし、自分自身のことでいえば、36年間の会社員時代のことに「非常な人間的問題があった」という認識をもって、その時代を反面教師的に考えて日常の生活を過ごすようにしているつもりだ。

 こういう観点が背景にあって哲学を勉強しているとつくずく感じる。とにかく根源を追求。そしてそこをスタート点にしてそれぞれの哲学者たちの時代背景たる問題に対処していく、有名哲学者はそれを纏め、残す、こういう図式が単に西洋哲学だけでなく、東洋哲学というか仏教哲学や中国哲学にも共通しているじゃないかと益々感じるのである。

 デカルトもあらゆるものを疑っていってコギトに行き着いた。それを絶対に確実な知識のスタート地点に据えた。空間的拡がりを属性とする物体と、思惟を属性とする精神との二元論に立ち演繹的・合理的に世界の在り様、人間の在り様を論じていった。ジョン・ロックのタブララサも同じように根源に行きついた結果のもので、ただ、そこをスタート点として次のステップは、「経験」であった。経験が人間を、社会を、世界を作っていくのだというイギリス経験論の先駆者となっていった。

 私は次の講義予定がジャン=ジャック・ルソーだということで、『人間不平等起源論』(坂倉裕治訳・講談社学術文庫)をじっくり読んだ。第一部は退屈になるくらい訳語でいう「自然状態」「野生人」のことが延々と語られている。しかし私は知らされた。一つは人間の初期根源状態=自然状態は「平和」(“束縛から自由であり、最強者の法も効力をもたない”、“不平等はほとんど認められない”)であったこと、そして二つ目がその状態の長さであるが、人類史の長さを100とみるとその長さは95以上であっただろうと(“原初の時代のまったき粗野のままに、数世紀が流れた”)。
 [但し、ホッブスについては、“人間は自然にかなったあり方からして大胆不敵で、相手を攻撃し、戦うことしか考えない”とある。ルソー:性善説、ホッブス:性悪説のようにも感じる]
 このルソーの『人間不平等起源論』を読んで、サルトル・カミュ論争後のレヴィ=ストロースによるサルトル粉砕という現代哲学の潮流のことも頭をよぎった。時間的・空間的なスパンを全貌することの大事さを改めて感じている。

 ロラン・バルトの「零度」という言葉も頭をよぎった。「タブララサ」と同じように思えた。ある本の記述に、“構造主義とは、ひとことで言えば、さまざまな人間的諸制度(言語、文学、神話、親族、無意識など)における「零度の探求」であるということもできるでしょう”とあった。何事も根源追求が大事なのだ。

 次に仏教思想である。養老孟司は、“乱暴にいうなら、仏教思想は「脳からみた世界」である” といっている。般若心経は、まさに世界、人間の根源を言っている。「色即是空」、この「空」の思想、それから「無眼耳舌身意 無色声香味触法」、この「無」の思想。禅が求めるのもこのスタート地点ではなかろうか。
 また仏教には「十牛図」というものが知られている。真の自己を探して第八図「人牛倶忘」はただ空白だけ、根源=空無にたどり着いた、ゼロの自分にたどり着いたということと理解している。その先は何か。第九図は「返本還源」、これはいわば上述の「自然状態」にまず戻った、そして第十図は「入廛垂手」、町のなかに生きる、但し“ボーッと生きているんじゃない”、根源に行きつきそこからの生き方だから、人目には判らなくとも明らかに違った生き方をしているのである。

 古代中国に、孔孟思想と並んで、というかアンチテーゼとして老荘思想というものがあった。「道の道とすべきは、常の道にあらず」、孔孟による儒教思想が、前へ前へというイメージの思想に対し、前後・高低・過去現在未来をより俯瞰的にみたうえで、王が“なにか望むものはないか”に対し、“そこに居るから日陰になっている、そこをどいてくれ”となる、平和というものは富の集約なんかでは絶対ない、人々の平安なることであって、まず自分の平安なることへ戻るのである。

 私が講義出席できなかったときの例えばライプニッツのモナド論、古代ギリシャ哲学のありふれた概念を徹底追及する姿勢、古代中国の孔孟・老荘思想とも違う「陰陽五行」の考え方、等々等々、哲学すること、物を考えるということ、あるいは自分の現今の位置づけなどは、極力その根源を時空俯瞰的に見よというように私は理解している。
 もっとも仏陀の“毒矢の喩え”や、「無記(語られないこと)」は心しておかなければならない。

 然り而して、私は「白紙(タブララサ)」から、一般の哲学書には見られないような「哲学に関する感想」をつぶやいた。
 私は、会社員時代の後期にメンタルな病気を経験した。今から考えると、なんと視野狭窄だったのか、あのときの死にたいとまで思った悩みはなんだったのか、会社員時代のうちに今の知見の水準になっていたかった、…いろいろな想いがある。
 また、今の世界、「経済成長という病」、「グローバリズムという病」、格差問題、環境問題、人口問題、……、先達の智慧を多いに活かし、できることを意識して対応していこうと思う次第である。
      

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