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おじんのつぶやき



  64.高校同期生の活躍(19.01.23)

 武蔵野大学社会連携センター三鷹サテライト教室での受講は、30年度は、仏教関係の講座に気に入るものが無く、「西洋哲学」関係の1講座だけになっていることは第57号でちょっと触れた。

 ちょっと横道に逸れるが、武蔵野大学社会連携センターの運営の仕方が、私が飛び込んだ頃に比べて替わってきて、三鷹教室の責任者は相変わらず営業努力をしているものの、全体がなんとなく浮薄というか当為での講座配置に思えるようで仕方がない。ある時期までは三鷹教室だけで、受講講座は大体は満員近かった。
 その後千代田教室ができて分散化され、大学の主体が有明に移ったとか、薬学部(薬師如来などから連想して意図は理解できた)、さらに経済や法学部なども新設されて総合大学化され、我々大学外一般社会向けへの傾注度が下がったのではなかろうか。以前は、前・後期で作られていた講座案内チラシは春・夏・秋・冬号と4回になりじっくり取り組む連続物が少なくなったり、多様性はよいとしてもなんとなく無理やり複数の1時限講座を特別講座と称してまとめたりしているように思える。前号でつぶやいた「しあわせを考える」などもいろいろな学部学科の先生を集めたものだった。
 ちなみに、以前の私の受講に関する呟きはこのHPにもたびたび登場しているが、例えば2013年度(平成25年度)はある一定ジャンルを規定以上の時間受講した者が表彰される制度にも引っ掛かったくらい通ったものだった(受講報告がある)が今は受講意欲をそそるものが少なすぎる。なお、三鷹でなく新町の大学校舎での「オムニバス仏教講座」は講座というより講演的で「私と仏教との出会い」に関するものなので、全5回を申し込んである(いけない日もあるが仕方ない)。

 本題に戻ろう。30年度春号で申し込んだ講座は、『「哲学カフェ」にようこそ!ぶらり西洋哲学の森へ』だった。2時間ものだが、1回で終わり得るものではなく、1か月1回、計3回だった。が、また3回で終わり得るものでもない。夏・秋・冬号とに同じように連続されていた。各号分その都度申込んで、半分は別の用件と重なり出席できなかったが、資料は事務局が保持してくれているので、資料的には連続している。
 ともあれ、冬号は1回目は1月9日で、ジョン・ロックについて多く時間が割かれた。そして次回はジャン=ジャック・ルソーについて行うということで事前資料も先生は用意してくださっており、予習をしておくと理解しやすいだろうということだ。

 以上が本題の前提。
 この先生の講義資料には原色で哲学者の肖像画はじめ図像が沢山ある.。参考図書ないし講義で言及する図書などの表紙写真もたくさん盛られている。私は、1月9日の講義のなかで、その一つの写真に取り憑かれた。ちょっと斜めに配されたその本は、「完訳 『統治二論』 ジョン・ロック著 加藤節訳 岩波文庫」 だ。訳者の名前だ。
 2時間の講義中、関連は、横に、「第二章 自然状態について」の「四」の部分12行ほどが示されており、先生曰くは “ロックの政治論”の部分だというような説明だけで進み、この回の大半は、ロックの『人間知性論』中にある、人はもともと「白紙状態(タブララサ)」で生まれてきて、知識は、知覚に代表される「経験」によって形成される、というその「経験」をキーワードに、森有正の『遥かなノートル・ダム』での次元の違う「経験」、西田幾多郎の「純粋経験」、三木清の『人生論ノート』に話が及ぶなどして著書の一部の細かい引用部分などとても流れ読みさえできぬ間に2時間は過ぎてしまう、いつもそういう講義であった(今回は先生も自覚されたのか、次回以降のルソー関係の資料を事前にお渡しくださった)。
 ともあれ脳内に残った画像は、「加藤節」である。高校の同期生である。南原繁の研究者だという認識しかなかった。
 帰宅してネットで調べた。ロックは終わって今度はルソーだというのに、加藤節・ロック関係とルソー関係の本を一挙に5~6冊アマゾン注文である。加藤節関係では、『ジョン・ロック -神と人間との間』(岩波新書)、『寛容についての手紙』の訳書(岩波文庫)の2冊。加藤節は新書には他に『南原繁』あり、文庫では上記『統治二論』等、天下の岩波書店と大きな繋がりを持っているほかに、南原繁関係ももちろんだが、ジョン・ロック関係の著書も多数で、彼を見直した。高校のときのクラスが離れていたから一緒の授業はなかったし、従って話をしたこともないから彼も私など知らないだろうが、私側としては、同期会で出席者名簿にあるのについに現れなかったということ数回、彼をそういう印象での見方でいた。改めなくてはいけない。

 ともあれ、彼の2冊の著書からの大きな感想。
1.「タブララサ」が2冊の本に見えない
 講義の先生の資料はもちろん、哲学を概観する本〈手許では『山川 哲学』(山川出版社)、『図説・標準 哲学史』貫成人(新書館)、『西洋哲学史』今道友信(講談社学術文庫)など〉のロックの項には必ず出ている「白紙(タブララサ)」を散々探したがついに2冊の本のなかでは発見できなかった。もちろん彼の著書のどこにもないということではないことは確信できるが、最新の岩波新書は、いわば「ジョン・ロック論」として全体像を表してくれるものとの期待から、ロックの代名詞的なこの語は出てくるものと考えていた。しかし考えてみると、講義中先生も、ロックの「レンジの広さ」ということをいっていたが、認識論、政治学、寛容論、神学、教育論、経済論と多岐に亘っての卓越した人物であったこともあり、加藤は思想の変転、亀裂なども含めた実像追求に全体を傾けているため、タブララサは、“真にロック的な認識論が形成された苦闘の歴史”(p42)の中の一断面であったというとらえ方であって、「抽出」でなく「全体」という立場が貫かれているということだと理解したい。ロックの「思想論」ではなくて「人物論」なのであろう。

2.とはいえ、加藤はやはり「政治思想」研究者だ
 加藤は、敗戦間際から敗戦、敗戦後の東大総長で「政治哲学者」だった南原繁の研究者というか丸山真夫等を間に入れた南原繁の孫弟子ともいえるようだ。
 岩波新書『ジョン・ロック』では、ロックの思索には、政治=寛容論の系譜と、認識=道徳論の系譜とがあるとして思想世界の解読をしてくれており、後者を代表する『人間知性論』の人間像;人間の自立性と主体性を前提にした信仰など各人の自己決定に委ねる個人主義、の帰結は政治=寛容論の系譜でのロックのリベラルな立場に繋がっていっている、という主張をもって「第三章 政治と宗教」に大部を割いている。もちろん認識=道徳論の系譜にも「第四章 生と知」としてまた大部を割いており、この新書そのものは公平にロックの、しかも作られたイメージから新資料を取り込んだ新しいロック全体像を著したものといえようが、もしこれが「哲学者」によって書かれたとすれば、やはりどこかで「タブララサ」は出てきたのではなかろうか。ロックの主著『人間知性論』は全4巻でとてもいまのところ私には手を出す勇気がないが、この加藤の新書には書名としての二重括弧の『人間知性論』は110回ほど出てくる。ここに書かれていることが基礎になって、あるいは通り道となってロックの思想体系は広く拡大していったとみるべきではなかろうか。哲学は諸学の基礎なのである。
 新書での著者紹介の「専攻」は政治学史・政治哲学 となっている。

 ロックとルソーがごちゃごちゃになっていることについては別号に譲ろう。
      

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