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おじんのつぶやき



  60.読書の繋がり(18.12.19)

 前号で「学力」とは、試験の点数のような数値だけでとらえるものではなく、「学ぶ力」であって、その「伸びる」条件は、
 ①“自分にはまだまだ学ばなければならないことがたくさんあるという「学び足りなさ」の自覚”をもって、
 ②“至る所に師ありで、書物を読んで会ったことのない人を「師」”にみたてるもよし、
 “「無垢さ」、何でも吸収しますという「開放性」の構え”で臨む、
ということをみた。では、この学力が伸びることは必要か。
 これには内田樹も直接的には答えていない。自分で考えよ、ということだろう。
 
 ここでやはり自分ながらに、常用の日本語に縛られた私がいることに気付く。
 「学力が」というときは、直前の目的のための「知識」を得る活動を通しての、その結果、試験成績などを連想してしまう。
 「学力が」伸びる、と「学ぶ力が」伸びる、にどうしても違いを感じてしまう。知識と智慧との違いのようだ。

 私は考える(デカルトやパスカル的ほど高級ではないが)。「学ぶ力」ということばを意識的にして先へ進めよう。

 「学ぶ力が」というときにはじめて頭書の3条件が合点がゆく。
 目の前しか見えていなかった自分、自分の位置すら理解せずにひたすら閉所にいた自分がみえてきて、そこから解放・開放され、今度は、空間的・時間的に自分の位置づけが判り、①②③で臨むことに「人生の充実感」が感じられるようになる。
 「学ぶ力」が伸びることの『必要性』を、少なくとも「私は」、この人生を、“こころゆたかに”、“より成熟させる”こと、そのことが人生の充実感をもたらす、そう、ここにあると考える。
 もちろんこれは規則でもなんでもなく、他人に強制するものでもない。

 内田樹の『街場の読書論』は、“早く読めてしかも内容を理解できる良い読書「方法」があるか”といういかにも「こすっからしい」内心をもって読書の緒に就いたことは既に書いた。内田樹の書き物への上記①②③的姿勢での最近の私の状況から、既に20冊くらい彼の著書は溜まってしまっているなかでの1冊ではあったから、単にそういう狡猾的な意識だけではなかったことも事実だが。ともあれ、この500ページ余の大冊、他の読みかけ内田本をさしおいて数日で読めてしまった。

 まさに上記①にあるように、本を読んでいると「学び足りなさ」というか、このように書いてあるのだからそのことをもっと確かめてみよう、という「力」が沸く。「学ぶ力」なのだろう。本が本を呼ぶのだ。この現象は、いまでこそ主に「内田本」、「哲学本」にその束ね本をみるが、長いこと「仏教本」であったり、「現下の日本の姿」であったりした。後者も決して現在は脳から離れたということではない。「学ぶ力」は、大いに過去・現在の「学び」の中から引き寄せられる、ということである。

 例えば、いっぱいテーブル上には本が積みあげてあるのに、書架をぼんやり眺めていて、養老孟司の『無思想の発見』をそっと抜き出して読み始めた。いつごろ購入したのか憶えがないが裏表紙の「¥400 BOOK・OFF」の値札がピッタリくっついていて剥がれないでいる。ズルズルと3日間くらいで読んでしまった。ここで、何故「養老孟司」か。そうです。内田樹の本には、どこになんてとても覚えてはいないが、よく「養老先生」「養老孟司先生」という語を見ているからだ。
 『無思想の発見』は、内田の『日本辺境論』にも通じるところがあるなとか、著者が般若心経における「空」と「無」を評価して“仏教思想とは「脳から見た世界」である”として、“日本の思想を、すべてとはいわないが、仏教思想だと、なぜいわないのだろうか”というところに感慨を持ったとか、文化系のひと・理科系のひとの対比が多い(養老氏は解剖専門で理科系、内田はもちろん文化系)とか、文章が短文で読みやすい、…… とかいろいろ感想ももったが、それらはここでの主意ではない。
 内田の本のなかでの「養老先生」の扱いに惹かれて入手はしてあったものの読んでなかった養老孟司の本にちょっと触ったら一気読みしてしまった、ということが言いたかったのだ。この人には例の『バカの壁』がある。いつか読んでみよう。

 実は主意としてこの号で言いたかったのは、「平川克美の発見」である。上に「無思想の発見」などあって、まさに、いまのいまの流れで「発見」などという語を使ってしまったのだ。無思想という思想も平川克美という人物も突如として表れたのではない。前者は訥々とその「発見」の謂れを1冊の本にし、後者は、内田樹のいくつかの本に「平川君」がよく言及されているので著書に手を伸ばしてみたら、ズルズルもう数冊になってしまった、私には内田同様に波長の合う存在になってきている、それはここ1年くらいの間である、従ってまさに「発見」という語を宛てたのであった。
 内田の『街場の読書論』にも平川克美の本についてのエッセイが2件あり、『株式会社という病』についてのところでは、あるところを長く引用して示し、その後、
 “よい文章である。…平川くんが「平川精密の人々」を回顧的に描くときの文章が僕は好きだ。……”、“パセティックである”
 などとあるが、私が平川克美に最初に惹かれたのは、同じ内田の別の本(探したがその部分を探し得ていない)のやはり、ほぼ同じ引用部分であった(と思う)。零細工場と零細農家の違いはあったものの、私の故郷の、「土地構造改善が行われる以前の状況」」を彷彿させるものがあった。『株式会社という病』のこんな部分である。
 “生活は貧しいが、矩を越えずといった安定的な貧しさの中に、多くのひとたちが安住していた”
 “今日のような自己実現の夢を育もうとはしなかったかもしれないし、格差社会を意識するといったことはなかったかもしれないが、それ以上に、かれらの世界には安定した倫理観と、生活上の慰安があった”
  (『街場の読書論』での当該個所は、75~76ページとなっているが、私の所有本(文春文庫)では95ページ)

 『株式会社という病』(文春文庫)、『移行期的混乱』(ちくま文庫)、『経済成長という病』(講談社現代新書)、『グローバリズムという病』(東洋経済)、……。
 内田樹編ないし共著の、『人口減少社会の未来学』(文芸春秋)、『農業を株式会社化するという無理』(家の光協会)にも文章がある。

 『…という病』が多いが、内田樹の初期の著作『ためらいの倫理学』(角川文庫)に、「アメリカという病」という小文がある。そして先ごろ『自民党という病』(平凡社新書)が発刊されたということを朝日新聞1面下最右翼で知り、アマゾンでの購入手続きをした。なお、『ためらいの倫理学』は、内田の20冊近い本のなかでも何回も読みたい本である。

 「書物」ないし「書物について書かれたもの」がまた書物を呼ぶ。読書の繋がりである。
 願わくは、もっと広範囲、内田がフランス現代思想や映画論、武道論などを専門としていることとの対比においては、“文化資本の違い”などという言い訳をするつもりは毛頭なく、ただ「器(うつわ)」の違いのひとことであるが、努力すべきは、内田に共鳴すること大なる「哲学・倫理・思想」等における、ベクトル上反対の立場(例えば「日本会議」)的書物をも冷静に読み、判断するような域にまで行けたらなどとも考えるが、これは妄想だろう。

 これからもまだ、内田、平川関連でこのページ作りがされるだろう。      

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