復活

おじんのつぶやき



  6.仏教勉強関係覚書-T(16.8.1)

 2次サイトで原始仏教が、やはり私の「正法」としての関心どころだ、と書いたのは1月だった。
 3月に仏教とは無関係な記事を書いて、次がこの「復活」版になったのだから2次サイトは実質終了していた。
 2月以降の仏教学の学習の屈折した流れを振り返ってメモとして記録しておきたい。
 流れがまちまちで、ちょっとしたきっかけで分流して他方は砂漠の涸れ川のように立ち消えたり、急に湧水が噴き出して流れを作ったり、とまったく落ち着きどころがない。

 原始仏教の続きから言えば、宮坂宥勝『真理の花たば 法句経』が流れに繋がった。『法句経』といえば、昭和9年のラジオでの友松圓諦「法句経講義」が大反響を起こしたことは知る人は知るところのものである。宮坂の解説にはかなり共感した。
 極端に受講を少なくしている武蔵野大学サテライト教室で、道元を中心にした中野東禅先生の講義は唯一続けているが、平成28年度前期、ただ1講座追加で受講しているのが、『ダンマパダ(法句経)に聞く』だが、これに先立って宮坂の本は読んでしまっていた。現在講座を受講していて、同じものを対象にしているのに何故にこんなに違うのか(講座はおもしろくないので先生名も伏せる)と思いつつまだ2回残しているが、流れからいうと法句経の内容への感銘は涸れてはいなく、いつでもまた関心が戻る可能性を保持しているものの、ここに書き残したいのは、ここに大きな「分流」ができたことである。

 宮坂宥勝、更に渡辺照宏、こういう方たちと「密教」の関係である。旧サイトの32号で、私は、岩波新書『仏教』や『お経の話』など渡辺照宏の本を最初の仏教への関心の入り口としていたのに、同じ著者の『南無大師遍照金剛』(成田山選書)を探し出し読んだときの「とまどい」を綴っている。
 今回宮坂の本に感銘したので、ついに「仏教の思想」という各所で触れたシリーズのなかで「ツンドク」になっていた宮坂宥勝・梅原猛『生命の海<空海>』(角川文庫ソフィア)に手を付けた。渡辺照宏・宮坂宥勝の『沙門空海』(ちくま学芸文庫)にも及んだ。渡辺の岩波新書同様に宗教宗派的偏向は感じられなかった。もしかしたら、渡辺の『南無大師遍照金剛』もたしかに信者への解説書とはいえ、博士号をもつ学者僧侶だから、空海の偉大さを強調しようという姿勢はあっても、根拠なきことまで曲げて付加するようなことはなかったかもしれない。初めて接した「加持祈祷」だの護摩焚きなど、あるいは曼荼羅・真言・陀羅尼などへの「とまどい」だったかもしれない。

 とはいえ密教、いわば真言宗、台密も含めると天台宗も関係してくるが、私にはある記述が連動してくる。
 「深い行解の相応」、「解のない行は内容のない盲目的なものになるし、行のない解は内容はあっても観念的になる」
 臨済系は「解」において欠けるところが目立ち、曹洞系は「行」において不足するところが多い、とあるし、妙好人について、信仰にほとんど奥行きがない、門徒として尊いが高く位置づけられない、というようなことが書いてある。

 これは、禅の関係の書物(『禅の今日的発見』佐橋法龍)にあったものだが、宗派を問わず言えることだと思う。
 宮坂宥勝・梅原猛『生命の海<空海>』のはしがき部分に、中学・高校の教科書には「空海は、最澄とともに、平安仏教の開設者であるが、平安仏教は貴族仏教で祈祷仏教にすぎず、真の民衆の仏教、思想的仏教は、鎌倉時代に起こった」と書かれており、このような「常識の誤謬にまっこうから挑戦しなければならない」としている。
 平安仏教は「解」の背景のない「行」が主だとみられているということだろう。現在においても真言宗の寺院で行われている神道顔負けの行事の思想的内容を、畏まって見ている人はもちろん、行っている僧さえも果たして本当に解して行っているのだろうか。
 『生命の海<空海>』文庫版序で梅原猛は、「真言密教、あるいは空海を発見することにより私の人生を変えた」という冒頭から少し進んで、「禅と浄土はなんとなく暗い、禅はともすれば黒一色の世界であり、念仏の声も哀調をおびた悲しみの声だ」「あの五彩の原色に光り輝き、高らかに生命の肯定の歌を歌う密教は、甚だ新鮮なものに感じられた」としている。
 確かに私としても、今までの密教関係書物に比べると、宮坂宥勝の書いた第一部は辞書的・辞典的に今後も「密教についてのこの部分の意味は」というように使えるような感触は覚えた。
 しかし、この本の解説に、正木という知らないひとだが、「複雑さに露骨な嫌悪をしめす知識人が多い」と書きだしているが、正直なところ私はいくら宮坂氏が懇切丁寧に解説してくれても理解するのに汲々、いわんやその境地に自分を投げ入れるなどとてもできない。今後とも真言密教には部外者として対峙していくことになろう。

 私は宮坂宥勝、渡辺照宏というような方は、「複雑さ」などものともせず、原始仏教から大乗仏教までの流れの「解」もしっかり備えたうえで、大乗仏教から独立させて論ずる学説もすくなくない(三枝充悳『仏教入門』岩波新書)「密教」に及んで、その位置をご自分の立ち位置にしようとしておられる、よほど頭脳構造が違うとしか思えない。

 宮坂自身が「むすび」で述べている。
「一般に仏教は知性の宗教であるといわれている。」「感覚を排除した知性の仏教が顕教だとすれば、密教は情感の仏教だといってよいかもしれない」「密教は一面において単純に感覚の世界に退化しやすい危険性をたえずもっていることも事実である」「独一の原理による統一ではなくて、多様性の肯定のうえに立つところのいっさいを総合的に包含した合一において、かえって個の多様さを生かす」
 こういう総括からは私は負の面の方が連想される。

 ともあれ、この西東京市、私はある会のなかのサブグループ「市内歴史散歩会」の幹事をしているが、寺院では圧倒的に真言宗が多い。全国的に言えば真言宗は神仏合体的に土着化してきたため、明治の廃仏毀釈、神仏分離で打撃を最も大きく受け、禅宗や浄土真宗に比べて小宗派になっているようだが、複雑さへの嫌悪、内容の「解」への未頓着、…… そもそも日本の真言宗に限らず仏教事情の歴史を顧みるに、近代知識人のみでなく、近代以前も、そして現在も、人間一般の本性かもしれない。その時その時に応じてその派の妙好人になるのである。 

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