復活

おじんのつぶやき



  52.備忘録(18.04.13)

 つぶやいておきたいと想ういくつかのテーマがありながらどれもこれも研究が中途半端で書けないでいる。テーマと趣旨くらいを簡単にメモしておき、後日機会があったらどれかにでも詳細挑戦してみよう。

1.将来の世界の姿について
 西部邁がどういう心境で自殺に至ったかは知らないが、世代が近い私にとって、もし彼が「将来世界を悲観して」などということであるならば、私の而今は「そこまで責任を持つ必要はない」、「いまを生きよう」と個人的に達観しているつもりではあるが、将来地球世界については、確かにいろいろ心配に思うところはある。
 超長期スパンにおいては、地球には46億年まえの溶岩の塊りだった誕生の時期から、途中には氷河期もあり、人類の歴史など微小なもので、そのレヴェルでいつどうなるかなど考えても仕方のないところであるが、もう少し短期スパンで、せいぜいいわゆる人類史のなかでの歴史時代を考えても、近・現代は異常な時期にある。
 覇権の動きもあったが、そういうことは表面であって、世界人口の動向、現在が「資本主義」の時代であるということ、この2点からの将来世界の動向、そして、もう少しスパンを縮めて将来2~30年の動向などは気になるところである。

 いくつかの抜粋を備忘的に残しておきたい。全然まとまりを持ちえないでいるが気になる論である。
① 以前にも引用した。内田樹『ローカリズム宣言』の冒頭。
 「グローバル資本主義というシステムが終焉を迎えようとしています。資本主義は人口増と生産技術の進化と経済成長を前提にした仕組みなので、どれか一つの条件が失われれば、終わります。現代世界では、人口増と経済成長という二つの条件がもう失われつつあります。」
 いまちょっとグラフを探しえないが、人口の推移グラフは長い漸増から近現代に直立的に激増している図を大概の人は目にしているのではないだろうか。今すでに先進国では峠を越して減少の動向はもはや止められない状況になっているが、資本主義的には、人口=需要 である。近現代の人口の突出は、私には「バブル」に思える。バブルは弾ける運命にある。

② 浜矩子『地球経済のまわり方』(ちくまプリマー新書)
 彼女の本は別に数冊あるが、もともとは古本屋で「どアホノミクス云々」を探していて、それはなかったが、著者名で上記を、108円で購入した。歯切れがよく、短文がバシッバシッと連なったような、一味違った近代経済学原論のような感じだ。
 「経済活動という名の三角形の三辺を構成しているのが、成長と競争と分配という三つの要素である。成長をいいかえれば雇用創造、競争をいいかえれば強者生存、分配をいいかえれば弱者救済だ。」、冒頭の冒頭である。
 「日本経済の三角形は、今や競争と成長ばかりを追い求めるモデルに変貌してしまっている。パニック的な競争至上主義への方向転換。それが1990年代末から動きだすのである。」
 「すっかり大人になったものが、成長しなくなるのは当然だ。かつてのストック無きフロー大国が、いまや、フロー無きストック大国に変貌している。・・・・・・だから、たとえ延々と喪失の時が続いても、なお豊かなイメージを保っていられる。」、なかごろ。
 「今、我々が第三次グローバル化の時代を生きている。先行した二つのグローバル化の時代と・・・何がどう違うか・・・第一に、過去の二つのグローバル化時代は、人類に空間的拡大をもたらした。それに対して、我らの第三次グローバル化時代は、人類に時空を超えた短縮をもたらしている。・・・・・・第二の違いは、グローバル・ジャングルの存在そのものである。今、我々がグローバル・ジャングルの住人になっているというこの点においてこそ、過去の二つのグローバル化時代と今とは、その性格が大きくことなっている。」、WTO、自由・無差別・互恵、これへの違反・・・・そして、
 「地域限定排他型の約束がいくら増えても、その総和として、自由・無差別・互恵の全方位的自由貿易は実現しない。」

③ 水野和夫、「資本主義の終焉」を看破しているとされているが私は未だ全体像を把握できていない。
 『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』、この章題を掲げよう。まだ読破してないが興味深い。
 第1章 「国民国家」では乗り越えられない「歴史の危機」 、  第2章 例外状況の日常化と近代の逆接 、 第3章 生き残るのは「閉じた帝国」 、 第4章 ゼロ金利国・日独の分岐点と中国の帝国化 、 第5章 「無限空間」の消滅がもたらす「新中世」 、 第6章 日本の決断 ― 近代システムとゆっくり手をきるために
 ここのところ「国民国家」という語がよく目に留まり気になる。これはこれで、国民が孕むネイションとシティズンという二つの側面から、国民・国家主義批判として、岡野八代『シティズンシップの政治学』を読んでいるところなので穣る。
 閉じていくプロセスに突入した、という概念はなんとなく判る今日の状況である。新自由主義的イデオロギーがうまく包み込んでここ4~50年、グローバリゼーションが世界を席巻してきたが、格差、貧困、その他の悪しき象徴が表面化し、国民国家へのゆり戻しという動きが見て取れる。著者は、この延長線上にしか「歴史の危機」を乗り越える解決策はないだろう、という趣旨の本であるらしい。

2.戦後日本の体制についての新たな知見
 “ 2009年に成立した民主党鳩山政権は「手持ちの外交カードがないまま対米自立を企てた」場合に何が起きるかを誰にでもわかるように教えてくれた。宗主国からの「処罰」が下る前に、外務省・防衛省を中心とする官僚たちと大手メディアら「対米従属テクノクラート」たちが束になって鳩山を引きずり下ろしたからである。”
 これは、サンデー毎日に載った内田樹の一文の中の一節である。凄く私にはショックを伴う知見であった。同時代に生きている自分でさえ、「見方」が間違っていた。
 鳩山については、「宇宙人」というあだ名だ、「ルーピー賞」という“最もまぬけな行動をとった組織に与えられる賞”が鳩山にちなんで制定・命名された、ワースト宰相、憲政史上に残るほど愚劣な宰相(産経新聞)、普天間基地移設の失敗は罪万死に値する失政(日本経済新聞)、などと種々揶揄され、私も深く考えずにそんなものかと思ってしまっていた。
 “外務省・防衛省を中心とする官僚たちと大手メディアらが束になって鳩山を引きずり下ろした”、このことは、日本は、もはや、非自民の政権は成り立ちえない、ということを意味しているに等しいではないか。そのように国民が洗脳されていた、私も含めて、ということではなかろうか。いま改めて考えると、沖縄県知事の翁長さんの執拗さは称賛しても仕切れないほどの位置づけであることを再認識しなければいけない。鳩山が砕けた、「最低でも沖縄以外」を言い続けているのである。そもそもその「最低」をもなしえない背景が、内田いわく、“「主権」買収の夢が消える”、であった(内田の記事参照)。日本は常に「辺境国」(内田、『日本辺境論』参照)なのである。近くは、「永続敗戦国」(白井聡、『永続敗戦論』講談社α文庫参照)なのである。「目的なき対米従属」スキーム継続。あの1960年に「60年安保」闘争に少しばかり係わった(高校1年時に「静かな市中行進」をした)者として、条約の重みをいまさらながら感ぜずにはいられない。内田いわくは、経済大国としてアメリカを凌駕した時期にさえ、国民国家としての自立を成し得なかったツケは続いているのである。

3.文化資本
 この用語は内田樹を通して初めて知った言葉であるが、良きにつけわる気につけ大いに使用価値ある語だと思う。内田樹『街場の現代思想』(文春文庫)の第一章は「文化資本主義の時代」である。「階級」というマルクス主義概念とは違う「階層」という概念と文化資本概念は関係がある。「階層」というのは、本人がどう思おうと、ご本人の自己決定や努力とはかかわりなしに、リアルかつクールに「もう、すでに、そこに」存在する。意識しないのに「身についてしまっている」「身体化された文化資本」、家庭において獲得された趣味や教養やマナーなどだ。対して、後天的なもの、学習して獲得された知識、技能、感性などもあるにはある。「制度化された文化資本」というそうだ。
 私は、いろいろな場面で「曖昧な」劣等感的な気分になることが非常に多い。それこそ文化資本の差を「意識」に近いところに引き寄せているのである。音楽、絵画など芸術の話、スポーツなどの論でなく技能面のこと、英語など外国語の読解や文法ではない話す・聞く分野のこと、等々。それらを身に着けて自然に振る舞っている場面に自分が居たら必ずそうなる。
 それ以外にも、私特有かもしれないが、そこしか受からなかった場違いの大学を卒業して、野人的(自称)な私と対照的なその大学の雰囲気からくる同窓・同期生、特に私のような外部からでなく「下」(要は付属校)から来た人たちには応対する前に既に引け目を感じてしまっている自分がある、それを感じている。
 文化資本は、“狭隘な社会集団に排他的に蓄積される性質”で、“「文化資本を獲得するために努力する」というみぶりそのものが、文化資本の偏在によって階層化された社会では、「文化的貴族」へのドアを閉じてしまう”、という内田のいうことも良くわかる。とすると、本当は意識にも上らせたくないのだが、意識してしまうとしても達観するしかないな、こう考えるしかない。
 さらにいうならば、都会人は勿論、現今の農業においても見られない、幼少年時代の田畑の間を駆けまわって遊んだこと、田植え・田の草取り・稲刈り・蚕の桑取・蚕の世話等々、「私にだって身に着いた文化資本があるんだ、どうだ、思い知ったか」
くらいの心意気(負け惜しみかな?)でありたい、などと思うこともある。

4.シクラメンとクンシラン

  私は園芸はやらないが、別部屋の家内の方からあふれてきた鉢が少しベランダにある。
 それに加え、昨年12月初、友好的な会に出させていただいた折り、ビンゴゲームでシクラメンをいただいた。いただいた折りにすでに満開的だったが、ちょっと説明書にあった通りの簡単な手入れをしていたら3月末まで豪華さが変わらなかった。さすがにいまはもう終りである。
 今度はベランダの君子蘭(家内から聞いた語を「クンシュラン」と引いたら、なんとこんな漢字の名前、私が知らない世界だ)が満開になった。私は路傍の野草のカタバミやスミレなどが好きだが、君子蘭は春謳歌を感じる。








 

       

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