復活

おじんのつぶやき



  51.時代の大きな流れのなかの「いま」(18.03.22)

 中根千枝の『タテ社会の人間関係』での社会構造を私なりに要約するとこうなる。

 集団構成の要因を抽象的にとらえると、「資格」と「場」という二つの原理で設定でき、「資格」の共通性にあるものと、「場」の共有によるものとがある。そして日本の社会は、「場」を強調、すなわち「場」の枠が、社会的に集団構成、集団認識に大きな役割をもっていて、個人のもつ資格自体は第二の問題となっている。 
 こういう日本的集団の典型に官僚的セクショナリズムがあるが、親分・子分によって象徴される日本の土着の組織と原理的に同じで、集団の意見統一にヒエラルキーが使われ、意見統一がしやすく、理想的に機能したとき比類なき強みを発揮し、日本近代の達成に大きな役割を演じた。
 この日本における組織の構造を「タテ」とするとき、対応するものは、「ヨコ」と「契約」がある。「タテ」においては、契約精神が欠如しており、エモーショナルな線を基幹としている。論理よりも感情が優先するのである。自分の組織の外(「ウチ」に対する「ソト」)には盲目的で、組織の中においては、序列偏重、序列=自分の位置づけで尊大にもなり、諂いもする。

 身の回りをみて、「なんだ、当たり前のことをいっているだけじゃないか」と思われるが、中根の論拠の、「ヨコ」としてのインド社会、「契約」社会である欧米社会の構造を知ると、なるほど日本社会の特徴でもあるかな、と思う。
 〈権威主義と平等主義の力関係〉という節がある。西欧的協調、日本的民主主義、権威主義の3つを上からリーダーの、下から集団成員の力関係として矢印で位置づけた図がある(右下)。
    講談社現代新書版で、141ページからである。太字は私が施した。
 リーダーと部下の間の力関係を論じている部分である。上が強くなると「権威主義」で、下が強くなると「民主主義」である。前者は戦前に多く、後者は戦後に多い。

 
中根のこの本の第1版は昭和42年。私の大学卒業の前年である。どこの大学も文芸的、政治的・・・、大きな「タテカン」(立て看板)が所せましと並び、あちこちでマイクでの演説やパフォーマンスが見られ、自由で活発な雰囲気であった。
 著者中根は、このような学園の雰囲気でもわかるような当時の状態を反映して、この図の右には、〈不当な平等主義もまたここに〉として、さらに注で、“あらゆる分野に「民主主義」ための混乱は目にあまるものがある”、などということまで書いている。
 

 この本は時代を反映しているな、とつくづく感じた。戦後である「その時点」を、行き過ぎた平等主義、自我発露=エゴイズムの拡大に対し、ニュアンスとして警告的に論じていて、戦前の前者=権威主義には触れていない。戦前・戦中の前者=権威主義が悲惨なあの戦争を引き起こした、そのことには、この時代、まさに短期的昭和40年代前半にはもはや触れる必要はなかったようなのだ。

 しかし、私の今回の本論はこれからであって、これまでは、「前置き」である。
 現在の状況は、まさに、「権威主義」、図での一番右の状況にあるという見方を前提に論を進める。

 
 3月3日、財務省の森友問題関係公文書書き換え問題を追及したことを報じた、私の選挙区立憲民主党議員のフェイスブックで、「お友達」登録しているのだから当然コメントは応援するものが多いのだが、中に1件、「森友学園問題がでてから約1年が経過しました。もうやめたらどうですか。時間とお金の無駄」というのがあった。その後の次々に暴露されてきている展開に、このコメント氏は、いまはどう思っているかはわからないが、私は、あのコメントを見て、時代の変化、「平和ボケ的」退廃観を感ぜずにはいられなかった。
 中根は、別のところで、〈堂々と論理的に反論できない仕組み〉という小節のなかで、「タテ」のなかでは反論は抑圧されているので、他の集団に属する方からだけ出てくる。その場合も感情攻撃となり易く、典型的な例は、国会における、与党に対する野党の反論である、としている。しかしこの論には、私はそのまま同調することはできない。

 私が同調できないのは、時代の俯瞰的見方をひとつの根拠としている。そして内田樹の言説に賛同するからである。
 安倍1党独裁状態は戦前・戦時の大政翼賛会一歩手前的でさえあり、危険極まりない状態になっている。それが、当時と違うのは、身の回りに「戦争」を感じる状態においてではなく「平和じゃないか、何で?」という状態のなかでである。
 この「平和的」にみえる状態をよく見据える必要がある。これは、まさに先の昭和42年を含む「戦後は終わった」の雰囲気に続く、高度成長期を経ての産業構造の変化に伴う日本国そのものの「株式会社化」の完成過程であった。株式会社というのは、第二次ないし、第三次産業である。第一次産業の急激な退潮、私自身も、第一次産業で幼少年期を過ごし、大学卒業後には第二次産業人になってしまっていた。「集団就職」などといって地方から次々若者が都市に出てくる。それが自然の状況変化だったのである。第一次産業の急激な縮小、この移動者からの過酷な「収奪」、それが「成長の内実だった。
 この起源は、ある意味では確かに、明治維新にある。その後の物凄い経済的変化は、例えば『日本資本主義分析』(山田盛太郎)ほかで論議されてきたところである。しかし、戦後の私の目で見た歴史の中において、田畑の構造改善による小農民の第一次産業からの離脱推進、のどかな自然の収奪、第一次産業だった地域に近隣中心都市への通勤者という新住民の混入による伝統文化の破壊等々、明治維新後の急激な近代化に匹敵する第二の大産業構造変化の状況を実感をもって感じている。これぞ、「下部構造」の大変化の進行だったのである。

 この産業構造の変化=下部構造変化のもたらす影響は社会学的にもよく考えなければならない。ここに中根の上述「タテ」社会論の日本的特徴も関係してくる。二次・三次産業は「法人」、「株式会社」に代表される。利益を出すことを目的にした「資本主義」の中心である。構造的にはまさに「タテ」社会で、ヒエラルキーが支配するコミュニティーの集まりである。「場」を強調し、「ウチ」「ソト」を強く意識し、「ウチ」を守る、こういうヒエラルキーが日本全体を覆ってしまってきていたのである。
 そしてその「資本主義」、いまは新自由主義的資本主義は、もう天上になったにも拘わらず、歯止めが効かなくなって、実物を背景としないでネット空間での取引を通じて展開される「グローバル資本主義」、実需の見通しは人口減傾向がはっきりしていて増える見通しがないのに金融の追加緩和を続けるアベノミクスに係わる新自由主義的経済施策などがパイ、マスが大きくならないなかで妖怪のようにうごめいていているのである。

 こういう「タテ」、ヒエラルキー社会において、「忖度」は、意識的にと言う事はほとんどないが、構造的に「当たり前」である。私も詳細は省略するが2度、死ぬ思いをした(実際上はなにも問題がなかった)。しかし、今回はついに死者も出た。
 このヒエラルキーのなかにおける個は、自分のしたこと、立ち位置を、もう一人の自分が「他者」として見ることができないような全く視野狭窄になっており、視野は「他者」ではなく、直接の上司ないし関係周囲であり、その関係言動をこのヒエラルキーのなかでは全てと受け取ってしまうのである。だから、そういうことに気を配ること=忖度は日常的なのである。
 私の場合は、「他者」としての私が不在だった。この度の財務省の方々は、「国民」という他者は目に入らず、上の方、あるいは周囲に迷惑にならぬよう、繕ってしまう、すなわち「忖度」した行動をする、自分の属するヒエラルキーのどこかに関係することは、その「空気」にさえ忖度するのである。

 産業構造の変化によって、経済界はもちろん官僚界は何重にもなるヒエラルキーが普遍的になってしまっており、その「時期」は高度成長期から延々と固まってきてしまっていた。経済界にしても官僚界にしても「ヨコ」は、「ウチ」、「オタク」でありながら一番上部の頭が収斂するのは「政府」なのである。「日本株式会社」である。高度成長期に固まっていて、この何重にも輻輳化した大ヒエラルキーは、頭だけ替わってももう対応できないくらいに固定化してしまっていた。鳩山、菅、野田政権ではこの「日本株式会社」が不全を起こしてしまった。経済界、官僚界が頭を拒んだのである。株式会社的政策よりは、「平和」「安全」「福祉」「教育」「医療」等々資本主義に不向きな面(新自由主義的資本主義は、こういう分野さえ「商品化」してしまう)の本来あるべき主張をする現野党政策は、保守自民党政権にとって代わったとしても、構造的に、政府を維持できないようになってしまっていたのである。
 国民目線での、沖縄普天間基地移設で「最低でも県外」というのが、大ヒエラルキーの中での何重にもわたる小ヒエラルキーに属する日本的「タテ」社会的に洗脳されてしまっている人々、実はあのとき「私も」であったことを白状しなければいけないが、「鳩山さんは変な人だ」という個人的資質の問題に収斂していってしまっていたのである。
 3月15日の朝日デジタルでは、参議院小川敏夫議員が「苦言」と次のようにあった。
“自民党と官僚が一体だから、官僚が自民党を守るために改ざんをしたんじゃないか。官僚は政府の指示に従うことは当然としても、自民党と一体であってはいけない。あくまでもすべての政党に対して忠実でなくてはいけない。
 (小泉進次郎・自民党筆頭副幹事長が「自民党と官僚は切っても切れない関係が長い歴史の中にあるのは事実」と発言したことについて)自民党と官僚が一体であるという言葉が出るところに、今の政治の体質、行政の体質の問題、改善しなければいけない問題があるんじゃないか。小泉さんの発言に私は苦言を呈したい。(記者会見で)
 小泉は、反省する中での発言であったために大きなニュースになっていないが、私は、重大な事実・実態を漏らしていると思う。まさにその通りであるがために、もはや自民党以外の政権は成り立たないことをさえ言っているのだ。
 「国民の公僕か、与党議員の下僕か」ではないのだ。100%ではないとしても「自民党の下僕」化を認識しなければならない。

 もう長くなったのでページを収めなければいけない。いままでに述べてきたことは今後の世界に「悲観」を感じさせるばかりだった。しかし、上述「コメント氏」にも関係するが、最後に内田樹の『ローカリズム宣言』の中の一部を引用する。
 第3章 国家の「株式会社化」の中の最後の、日本は「独裁制」に向かっている、という小節である。

 (・・・・・・)ヒトラーのドイツも、ムソリーニのイタリアも、ペタンのフランスも、どこでも立法府が「われわれはもう議論を通じて国民的合意形成を果たすことができなくなった。よって緊急避難的に行政府に全権を移管する」と民主的に議決したことによって成立した政体です。(・・・・・)多くの人が誤解しているようですが、民主制と独裁制は対立概念ではありません。独裁制の対立概念は民主性ではなく共和制です。共和制とは、一時的な熱狂や人気で、国の根幹にかかわる政策が変更されないように、つまりなかなかものごとが決まらないように設計された政体のことです。(・・・・・・)立憲政治と民主主義が生き残るためには、国会が機能していることを具体的に示すしか手立てがないのです。(・・)国会審議があるせいで、官邸の出す法案が簡単には通らないこと、ものごとが簡単には決まらないこと(・・)国会が「共和制」の最後の砦になること(・・)です。

 「コメント氏」、いかがでしょうか。
       

TOPへ 戻る