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おじんのつぶやき



  50.今後の「世界」のすがたについて-2(18.03.08)

 第46号で、香山リカさんの本、 『世の中の意見が<私>と違うとき読む本』で、“経済学者の立場は学生時代のゼミで決まっている?”の項には苦笑させられた、などと書いたが、私の大学時代のゼミの先生は、常盤政治先生。農業経済学専攻の先生だった。通常の授業で「日本資本主義経済論」を講義いただき、ゼミでは、山田盛太郎の「日本資本主義分析」を読み合わせしたのではなかったかと記憶している。定かではない。大学時代の教科書やノートは下宿から故郷の田舎に箱詰めで10コ位送ったが、就職し帰郷した折り探したが、全部処分されていた。ともあれ、恐らく先生のご記憶には残らなかっただろうような劣等生であった。

 ただそれでも、香山リカさんにいわれるまでもなく、私の現代世界を見る目は、明らかに先生の側になってしまっている。もう50年も前の入社試験の際には、需給関係のグラフかなにか近経(近代経済学)的に優秀な回答をしたかに後日も言われていたが、満60歳直前で早期退職し、「会社」でなく「世界」に相対したとき、数学的ともいえる近経はダメだ、社会学的、哲学的、あるいは歴史学的に論じるマル経(マルクス経済学)でなければやっぱりだめだ、と感じ続けるに至っている。
 旧サイトの第221号 「私の立ち位置とゼミの先生」でもつぶやいたが、アベノミクス、あるいは対応しているのだろうが、現黒田日銀の政策はまったく当を得ていない。“過剰生産の調整を阻害=景気本格的回復でない現状の引き延ばし”、“「経済の強化」「景気の回復」「成長戦略」・・・、「頑張る人が報われるように」「自助努力」・・・。 頂点は「強い日本」である」、「強い」日本になんかならなくてもいい!”、と私はつぶやいてきた。

 先生は、“資本主義経済は(……)繁栄局面(Aufschwung)に達するとやがて暴力的調整局面として再び過剰生産恐慌に陥らざるをえないのが必然であり、それは資本主義経済の不可避的法則性なのである。(……)過剰生産=作られ過ぎた諸商品、その過程で膨張した擬制資本(株価や地価)が調整されざるを得ないのである”(『経済学は面白い:常盤政治著作選集』p237)と喝破し、経済政策は、過剰生産調整をむしろ阻害するような、「屋上屋を重ねる」過剰生産の追加要因強化ではなく、この調整過程で結果的に生ずる放置できない「社会的問題」にこそ傾注しなければならない、とする。

 資本主義の「経済的」必然を、私も同意するのだが、このようにみるとき、これに「学」の枠を超えてもっと巨視的、俯瞰的に断言してくれているのが内田樹である。内田は「知の巨人」で、「学」を嫌い、仏文学会も脱会している。
 “グローバル資本主義というシステムが終焉を迎えようとしています。資本主義は人口増と生産技術の進化と経済成長を前提にした仕組みなので、どれか一つの条件が失われれば、終わります”(『ローカリズム宣言:「成長」から「定常」へ』)。
 これは、第1章の冒頭である。三つの前提条件のうちの二つの左下がりベクトルはもう誰にも自明だ。
 “経済成長が止まった社会でなお無理に経済成長を続けようとしている人たちは、それが中世への退行であるということに気づかないほど狂っているのです”(同書p33)。
 これは、現在の政策の誤謬を指摘する点において、常盤先生の主張と同じである。
 少子化については、文脈は違う、クリエイティブ・ライティング講義録からなる『街場の文体論』(文春文庫)の「生き延びるためのリテラシー」の小節のなかで、“少子化は2006年から始まり、この趨勢はもう止められないと思っている”、と断言している。縷々中間を省略するが、少し先に行くと、
 “資本主義先進国では、どこも損得を基準に思量する人たちが多数を占めるようになった。だから、人口減になる。当然のことです。”、“あと三十年ほどで、中国もアメリカも一斉に今の日本と同じ超少子高齢化社会に入ります。歴史上はじめての経験です。飢饉や疫病や戦争で強いられた人口減ではなく、平和な時代に、国民たちが自主的に、「構造的な人口減少」を選択した。”、実に俯瞰的世界の見方だ。
 私は、退職するまでの60歳前には、こういう見方はできなかった。『街場の文体論』でいうならば、エクリチュールの虜囚であって、エクリチュールの縛り、エクリチュールの袋小路から出られずにいた、ということであろう。前号でも書いたことであるが、“「学者」でない、私の「会社員生活経験者」という側面を反面教師として得られた現在の心境”、である。

 ただ、私は、どうも内田と「気分」が同じようになれない。内田のいう「文化資本」に大きな差があることも影響していることは確かなのだが、「身体化された文化資本」を持ち合わせない私には、現在の日本・世界に、将来の日本・世界に想いをいたすとき、すごく内田との気分の差を感じるのである。北朝鮮問題などは俯瞰的に観たときそれほど意に介さなくてもよいと考えられるのだが、今の進行しつつある政局・政情を観るとき、ニーチェなりフーコーのように「大衆」への悲観になったり、仮に与野党交代が起きても、鳩山の敢えなき身内からの躓き(官僚は従来のエクリチュールになっていて着いてこない)の二の舞になる・・・・。内田が、必ずしも「楽観」であるといえるかどうかは別として、少なくとも私は、“「会社員生活経験者」という側面を反面教師”として、現状、将来にじれったいような「不安」を感じて仕方ないのだ。「革命」という言葉も頭をよぎるが、少ない私の歴史に関する知見でも「馬鹿げている」ということになってしまう。私はもちろんレーニンにはとても及ばないが、私以外でもいまやレーニンが現出するような時勢にない。それでも、なんとか、大きな物語の終焉を終焉させて、なにか新しい「大きな物語」を願う気持ちになってしまう。

 アマゾンで本を買うとどうしても引きずられて余分に買う。前号までに『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』という高橋源一郎の長い題名の本について触れた。帯の、赤字による「象徴天皇制、憲法9条、竹島問題―「小説」形式のまったく新しい社会批評!」や、推薦人の小熊英二、内田樹などの名があって、釣られて購入し、それなりに読破したが、感受性薄く、強く印象に留めるに至っていない。
 それよりも、私は、この本に逆に引きずられて後日、『君たちはどう生きるか』を購入し、わずかの期間で読んですごく感動した。吉野源三郎の昭和12年に発行されたものだ。これが、「昭和12年」という時に通過しえたのだ、という場外の感想は横に置くとして、私たち個々人の位置づけ、宇宙的・地球的・歴史的、そして社会的・・・・、こういう俯瞰的位置づけのなかに自分を置いて、どう生きるかを考えよう、という趣旨の本だ。これは中学生(旧制)のコペル君が主人公的になっているが、本来私もその同年代に読んでおかなければいけなかったはずの内容であった。中学生でも読めるものであるとともに、古稀をも過ぎた私をも感動させたのである。文庫本、単行本、マンガ版とあるが、単行本で購入したので、是非中・高生の孫に与えようと思う。
 それにしても、『ぼくたちは・・・』と『君たちは・・・』の私に与えた違いは何だろうと考えてみた。吉野源三郎は、治安維持法で逮捕された経歴もあり、戦後の有名な岩波書店の『世界』初代編集長もされた「社会科学系」のひと、対する高橋源一郎は、各種文学賞など多数の賞受賞している「小説家」。
 内田樹は、周りでの面白い人は全員理系で、社会科学・人文科学の研究者にはここ10年、知的興奮が得られた事がないと言っている(『街場の文体論』)が、私は違う。理系はまず外れ(とはいえ高校のときの現役時代履修科目は理系学科であった。浪人時代、貧乏で家業手伝いの傍らでの勉強のため、物理・化学を毛嫌いしていて自ら受験できる幅を狭めてしまっていたのだが)て、そして、人文科学に入る文学、芸術等にもまったく素養がない(文化資本ともいえようか)。やはり社会科学ということになってしまうのか・・・。でも人文科学のなかであろう「仏教学」は、哲学・倫理・精神科学等の絡みで社会科学系の「生き方学」と共通しており、私を惹きつける範囲だ。
 ちなみに、内田樹の凄さは前にも書いたが、『街場の文体論』第14講での漱石の、またその「虞美人草」の読み解きには感心を増すばかりであった。浪人時代、家の中は「お蚕さま」に占領されて勉強をする場所がなく、親類の家の部屋を暫く借りた折り、そこの書棚にあった漱石全集を、勉強もせずに読みふけった、あの「結果」は一体何だったろう。長々とした「閑話休題」。

 これからも、生きている限り、「まっとうに」対処していこう。
       

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