復活

おじんのつぶやき



  5.二人の自分のせめぎあい(16.7.25)

 最近、というかもう暫く前からともいえるが、自分の生き方に対し、「これでいいのだろうか」「いやこれでいいのだよ」的な小葛藤がある。それは、会社員時代のような、思い詰めるような悩みではなく、達観したように、「まあ、いいや」でいつも済ましてきてしまっているいわば贅沢な想いである。

 このホームページ「復活」にも関係してくる。
 退職してから10年ほど続けた自分を綴るホームページを2015年1月に止めて引揚げた。それなのにもうその年の5月には形を替えた別のホームページを立ち上げた。そして、それがまだ1年前後であるのにほぼ最初のホームページ的な形でこの「いま」を復活している。この理由は何だ?

 それぞれのトップページに理由的なことは記している。しかしそれは実は表面的なものなのだ。
 ちなみに、その表面的理由は、2番目ホームページは、

 「考え直してみると、私の人生は退職までは「登り」一方で、セカンドライフとしての今までの10年は、苦しかったファースト人生を拭い去り、山の頂上での滞留を満喫していた時期だったとも考えるようになりました。とすると、さあ、「下り」の人生、すなわちサード人生もある・・・・・・。なんとか心豊かな終活人生を模索していきたい・・・・・となったわけです。」

 そしてこの「復活」ホームページは、

 「旧サイトをワード化して本にしたり、そのPDFをPCやスマホ各所においてあるが、繰って見るのは面倒だ。そこでこっそり復活。目次クリックで目的のところにいけるのが楽だ。」

 これらの理由の奥底の「これでいいのだろうか」「いやこれでいいのだよ」の小葛藤の根本に、私は次の二つがあるのではないか、と思っている。

1.残存している「受験人間根性」と、それとのせめぎ合い
 高校生時代はとにかく教科書なり参考書なりの内容を理解し、活かされなければならなかった。理解しただけではいけなくて、それを活かすためにはその内容が身についていなければならなかった。
 私は特に「世界史」において思いだされるが、全く自分流に内容を記述整理し、頭の中の記憶棚に収め、一定の成果を挙げたという想いがあった。

 翻って昨今、全く内容というかカテゴリーは違うが読書は日常続けている。小説のようにのめり込んで一気に読了するようなカテゴリーではない。毎日切れ切れに読み進むような類だ。しかしそれでも読了に至る。そして「フーッ」と感嘆する。パラパラパラと前の方を感慨深げに無造作に繰る。
 さて、私は一体どこに感銘して読了にまで至ったのだろう。
 受験時代と違うことは、その場で線引きしたり付箋付けしたりしていないことである。本を汚したくないという気持ちがちょっと残っているのだろう(このことも考えてみればバカバカしい、本は飾り物ではないはずなのに)。

 ともあれ、ここに「受験人間根性」があらわれ、なんとかその本の内容を総括しておきたいと考える。しかし、これは若いころの柔軟な頭脳は影を潜めてしまっている現在、そう簡単なことではない。この「受験人間根性」の自分が性懲りもなくホームページを復活させるきっかけにもなっているのだ。

 しかし進まない。実現するのに苦労している姿をみたもう一人の自分が、「なんのためにそんなことをしているのだ、本を読んだ、どこかに感銘した、もうそれでいいではないか、先もみえてきているのに」という。今度はこれが、このホームページを止めたり、「休止」にしたり、三日坊主で終わらせたりする理由にもなっている。


2.くだらぬ「回顧趣味」とそれとのせめぎ合い
 最初のホームページには「半生のひととき」というカテゴリーを作ってかなりのページ数を費やした。もともとそれ以前に自作本200余ページの「我が半生の記」を著している。
 今回の復活に際し、カテゴリーは二つ、「復活 おじんのつぶやき」と「わが半生の記 再整理」で後者の第1号は、
 「私の生まれた家、旧サイトでは半生15号、35号で触れた。少し時代的に順序だててみたい。」で始まっている。「再整理」という名目のもとにいわば「改訂版」をつくろうという目論見である。

 私の脳裏には、この「記」は実年期間とまったく違うようになるだろうという想いがある。いま72歳、その半分の36年が会社員時代。しかしこの36年は、この「記」では、大学を卒業して、「その後36年の会社員時代を過ごしました」だけで終わっていいとさえ考えている。

 やはり一番書きたいのは幼少年期だ。とにかく1号、2号は書いた。次に書きたいのは牛小屋など東側であり、そしてなによりも家の中だ。障子型出入り口を備えたまま扉のようにも開ける玄関、その正面の十畳間、横の障子越しの囲炉裏やかまどのある台所、真っ黒にすすけた十畳間からみた天井と煙出し、・・・・・・、こういう光景の中に母親、父親、兄弟が織りなす日常の様子、お婆さまや、そのお婆さまの葬式のときの様子まで、・・・・

 しかし、しかし、だ。上記1と同様、こちらも「進まない」。こちらの進まない理由は簡単だ。要するに写真を含めての「絵」がないからだ。第1号では、旧サイトでも使った自作の「絵」を再録した。上記の書きたいところ、絵を書いてみようかという気持ちも少し沸いたり、また引っ込んだりしている。

 そして、こちらにももうひとりの自分が出てくる。「何のためにそんなことするんだ?」
 たしかにそうだ。生家の甥、姪だって関係ない。生家で一緒に過ごした父母やご先祖さんはもういない。共有できるのは兄弟だけじゃないか。


 さて、こんな「二人の私」のせめぎあいのなかでこのサイトは今後どう進んでいくか。
 誰かに強いられているのでなく、私の「きまま」に任せられていることはありがたいことだと思っている。

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