復活

おじんのつぶやき



  48.「成長」から「定常」へ(18.02.18)

 「他者」論で内田樹の本と末木文美士の本との間で行き来し、まだ決着がつかないで、内田の本来の「他者論」、それはレヴィナス3部作にいかねばならないのだが、そこに行きつく前にまた「構造主義」などでぶつぶつ呟いている(45、47号)、その途上であるのに、ある日の新聞一面下の書籍広告で、白井聡対話集、『ポスト「戦後」の進路を問う』に目を奪われ、いつものアマゾンに接触することになった。白井聡なる者を知っていたわけではなかった。『ポスト「戦後」の進路を問う』という私の現今の危機感に呼応が予想される題名と、対話者の一人に内田樹がいたことだけに惹きつけられてのことだった。
 アマゾンで何かを購入したことがある人はご承知のことと思うが、ある特定の商品を選ぶと、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」、とか「チェックした商品の関連商品」、とか「よく一緒に購入される商品」等、いつも単一で済まないようにされている。ある意味、商売に乗せられているという見方もできようが、一方では2ケ月一回の病院定期通院の際、神保町古本屋で入手するだけにしか通常の新しい著書入手機会を設けていない実情に対して、本当によい機会となっているという見方もできる。2018年のいま、2010年代の古本ではもう時代遅れ、という面もなきにしもあらずだ。
 今回、『<白井聡対話集>ポスト「戦後」の進路を問う』(かもがわ出版)購入を意図してアマゾンに対置し、結局引きずられて、内田樹の、『ローカリズム宣言 「成長」から「定常」へ』(デコ)、そして高橋源一郎の『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することを決めた』(集英社新書)の3冊を同時購入した。
 数日間経ったが、いま3冊目は途上で、前2冊は読了した。2冊ともにB6版・300ページほどで、それなりの物量だ。

 過日、ノーベル文学賞受賞、カズオ・イシグロの『日の名残り』は、高校卒業時同クラスの者が訳し、その後も数作品を彼が訳して日本に紹介しているので、(失礼な言い方だろうが)義務的に読んだ。もともと「文芸」に関するセンスはないと自認してはいたが、このときも、「読んだ」という実績を残しただけで、私には、まったく血肉になったという感想は持ち得なかった。

 しかし、白井対話集と内田の新本、読了した両書とも感激であった。納得・同感・新しい気づきや理路・知見、・・・・、そういうものに満ち満ちていた。

 白井聡、1977年生まれである。私、1944年生まれ、歳は半分、30歳代である。対話者、孫崎享、水野和夫、中島岳志、中村文則、信田さよ子、佐藤優、岡野八代、栗原康、内田樹、島田雅彦、馬奈木厳太郎、猿田佐世。
 私はこの12人のうち、水野、佐藤、内田の3人しか知らない。しかし、その他9人を含め、対話主題というか内容がみんな私の考えに違和をもたらすものではなかった。対話者のうち1960年以降の生まれが8人であった。現今の政治・経済・文化などあらゆる面での「私」の憤り的なことの共有者が、こんな若い世代にもいるんだ、ある意味、驚かれもした。
 各対話に対してコメントすることはここでは控える。白井は『永続敗戦論』という本(私は読んでない)を2013年に上梓して、この本はそれ以来の対話らしいが、「はじめに」には、
 “(『永続敗戦論』は)第二次安倍政権の成立を横目に執筆されたが、そこで打ち出した悪い予測はことごとく的中した。実に、同書一冊で、安倍政権がどのような政権であるかを基本的にはすべて説明できる。”、とか
 “同政権を五年間にわたって選択し続けている日本国民がどのような状態にあるのか、その歴史意識の中核がどのようなものであるかを説明するもの”、とかある(「はじめに」の日付は2017年12月)。
 信田さよ子の、白井を初めてテレビで見、その時の主張からの感想発言のなかに、
 “私たち団塊の世代からすると、一回転してまた戻ってきた正統派左翼―「左翼」って言ってよいかわからないですけど―だな、これで安心して死ねるな、というような感じだったわけです(笑)。”、とあった。
 白井はもとより、4分の3は初めて知る人、この現状に、私の視野の問題もあることは認めなければいけないが、他律的なことに原因を振り向けることは卑怯との認識を持ったうえで、彼らの知見が私の基に伝わってこないような体制、システム、要はメディアの問題はないだろうか。彼らの知見が何故もっと拡がりをみせないのか!
 ともあれ、私の「一望俯瞰的」視野努力はまだ不足と強く反省し、これを機会にもっと彼らに親しもう。


 もっとつぶやきたいのは内田の本の感想である。今号はこちらを念頭にして題名を設定した。なんとかあまり長くならない程度に収めなければならない。
 この本は、都市からの脱出者にエールを送るような体裁をしているが、まさに構造主義、レヴィナス論などの最前線哲学(もちろんそこに至るまでのあらゆる哲学―但し本人は常に専門ではないといっているが―)的知見からの、空間的・時間的世界の一望俯瞰的見方、バッサ・バッサと誰にも気兼ねせず喝破していることが、「現実状態」に飲み込まれず批判的に大局的に観ることが、今までの何冊かの彼の著書に比べて一段と多く私を惹きつけた。
 私は常々、私なりの白井対話集的危惧をつぶやいてきた。第15号等、その前後には多い。その後、内田樹の著書にふれるようになってから、「いや、まだ私の考えは浅い」と、その思考の根源を探るようになった。しかし、なんとも難しい。どれもが中途半端になっている時点での今回の『ローカリズム宣言 「成長」から「定常」へ』である。現実を直接の起点にしているので、私の想いに重なり、また補強してくれること大で、先に読み終わってしまった。

 “グローバル資本主義というシステムが終焉を迎えようとしています。資本主義は人口増と生産技術の進化と経済成長を前提にした仕組みなので、どれか一つの条件が失われれば、終わります。”、“もう成熟して、経済成長の余地のないところに経済成長をもたらすという不可能な夢・・・人間が生きて行く上でそれなしでは済まされないものに値札をつけて、市場で売り買いすれば・・・活性化・・・成長するという倒錯的な夢・・・・狂っています。”

 “日本には世界に誇れる豊かな自然があります。それは豊かな山河です。”、“日本のこの自然環境は「プライスレス」です。”、“この豊かな山河という「ストック」はそもそも金をいくら積み上げてもどこからも誰からも買うことができないものです。”、“(経済成長論者は)、「ストック」のありがたさに感謝しない・・・価値をあっさりゼロ査定した上で、「フローがない。カネがない。このままでは日本は終りだ」と騒ぎたてる。・・・・悪辣な煽り”、“「脱市場・脱貨幣」経済へ、「成長モデル」から「定常モデル」へのシフト”

 “安倍政権以後、政治過程の株式会社化が急速に進行しています。”、“(なぜ「こんなこと」が起きたのか。)理由は端的に産業構造の変化です。・・・日本人のほとんどが株式会社という組織でしか就労経験がないという時代になったから”、→“国会は「シャンシャン株主総会」”、→“日本は「独裁制」に向かっている”、=“立法府・・「無能」でなく「無意味化」・・その戦術を着々進めている。”、“立憲政治と民主主義が生き残るため・・国会が機能していることを示す、・・国会が「共和制」の最後の砦になること”

 “農業の価値は「生産性の低さ」”、“農業には人を市民的に成熟させる力がある”、“「勝者に報奨を、敗者に処罰を」。このルールが日本を脆弱にする”、“「多少使える人間」は恩恵を受け取っても、集団自体は、外から一撃されただけで崩壊してしまうほど脆くなる。それがいまの日本の実情”

 “「市場の全能」を停止させなければ、格差拡大は止まらない”、“格差の拡大は誰かの邪悪な意思によって起きているのではありません。市場の合理的な選択の帰結なのです。”、“日本の貧困化は不可逆的プロセス・・・政府の「経済成長」策は官製相場操作、大企業優先・富裕層優遇・・個人消費増えるはずない・・格差拡大、富の偏在に打つ手なし・・掉さしてさえだ”、→“地域に根差した相互支援・相互扶助の共同体です。「拡大家族」といってもいい。”→“求められるのは「リーダーシップ」よりも「いい人」であること”、
 “なぜ文科省は教育政策の大失敗を認めないのか?”、“学術的発信力の劇的な低下”、“「教師たちの生命力が衰弱する」政策を次から次へと繰り出す”、“壊滅的事態になるだろうけれど・・・そこまで日本の官僚たちは虚無的になっている”→“「私塾」が地域共同体再生の核になる”

 “現代日本のさまざまなシステムの劣化は、どれも先の戦争の末期の戦争指導部のパターンをみごとになぞっている。”、“メディアの劣化の一因は「貧すれば鈍す」というところにあります。・・・・「小商い」で回している所の方が「検閲耐性」はあきらかに強い。‥‥「自分が書きたいことを書くと読んでくれない読者」当てビジネスは制度設計が間違ってる”、→“「新聞は消滅する」と報道できない新聞に未来はない”、“10代の新聞閲読率(一日15分以上新聞を読む)は4%・・・限りなくゼロに近ずく”、“マスメディアが力を失った理由は、ジャーナリストたちが「自分がほんとうに言いたいこと」ではなく「こんなことを書いたら/放送したら、読者/視聴者が喜ぶだろう」とおもうことを報道してきたことにある”、“ネット最大の弱点は、「ウソ」を発信できること”、“いまのところ「発信者」を見抜くしかない”


 私のコメントを入れず引用転記だけ。もっともっといっぱいあってもページが長くなるばかりだ。上記引用だけでも、私の、危惧への同調点、なるほどそうだというような気づき点、等々「私のつぶやき」同等である。

 関連させるならば、かつて私は、グローバル資本主義についても何回もつぶやき、危惧していた(旧サイト目次には“グローバル”の語が頻出している)。また、“一番でなければいけないですか”、とかブータンの国の平和の様とかに触れて、成長神話、GNP神話を批判してきた。それが、「36年間の株式会社人生を脱して」から、初めて狭隘だった目の前が広く、深く開けてきた(会社員時代にこの心境が得られていたら人生は変わっていただろう)ことを目の当たりにした想いがし、その自分の大局的立ち位置が、ゼミの先生の論に近かった(旧サイト第221号ほか各所参照)、などもつぶやいた(このサイト前々号たる第46号では香山リカさんの、“経済学者の立場は学生時代のゼミで決まっている?”に苦笑したことも)。また、全く別の方面では少年時代に、大小いろいろな形をした田んぼのあぜ道を走り回って遊んだり、田植え・田の草取り・稲刈りなどを手伝ったりという懐かしくも「平和」だったものが、土地構造改善でドジョウやイナゴも見れないような自然破壊、農作業を奪われた長兄たち、お祭りや盆踊りなどのにぎやかだった行事が立ち行かなくなったこと、・・・・「平和度」は確実に下がってきている情景などもつぶやいたと思う。

 もう一点感想。白井対話集のところで書いたように、私の知らなかったひとが、これだけ私を惹きつける論の展開者。今回は新聞一面最下欄広告に反応しての出会いであったことは上記の通りだが、ということは、この偶然?がなければ依然として私がまさに「正論」とみる人たちに出会えなかったことになる。アマゾンでは特定の書名をはじめから特定したので、繋がるものをも掴み得たが、そういう経過を経ず、本→人文・哲学→・・・とジャンル検索しても白井対話集著者の本はなかなか見当たらない。そういう面での私の今後のあり方へのまたひとつ良い教訓を与えていただいた。
 しかし、なにより、「私」の充実もさることながら、このような見識・知見がもっともっと拡散させることができないものかとつくづく想う。私を含めて、上記著者たちはみな、地球の、人類の、「平和」を希求しているのに、“アウトサイダー”を自認しているのだ。ときに私は、大衆に対し密かにニーチェ、フーコー的に“畜群め!”とこころのなかで叫びたくなる。しかし内田は冷めている。私の「にんげん」の小ささを痛感する。

       

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