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おじんのつぶやき



  44.ボクということ - 閑話休題(18.01.08)

 内田樹の、2010年新書大賞受賞の『日本辺境論』。4章建てで最終章、「Ⅳ 辺境人は日本語とともに」の冒頭の節。

 “日本人の日本人性の根本をなしているのは日本語という言語そのもの”
 “どうして私がこの本で「です・ます」という文体を採用しているのか。どうして私が「ぼく」ではなく「私」という一人称を採用しているのか。その消息は、たぶん日本語話者にしかわからない。”
 “「どうして私が『ぼく』ではなく『私』という一人称を採用しているのか」 これはたぶん世界中のどんな外国語にも翻訳することができません。”


 などのフレーズが散りばめられて展開し、次のフレーズになる。

 “実はこの本の原稿を、私は途中までずっと「ぼく」で書いていたのです。ところが、途中で「ぼく」という人称代名詞では書き進められなくなった。十分な根拠が示せないのだが、とにかく勢いで突破せねばならない行論上の難所にぶつかったとき、「私」に切り替えたのです。「ぼく」では腰が弱すぎて、この難所を越えられないと思ったからです。”


 私はいままで、「ぼく」「僕」を使ったことがない。生涯使わないだろう。内田がいうように、“十分な根拠が示せない”のだが、育ちの違い、内田がいう「文化資本」に関係しているのではないかと私には思われる。
 内田は、『最終講義』では「僕」、『若者よ、マルクスを読もう』では「ぼく」を使っている。「私」を使っているのは、私とはどうも違った根拠だ。「ぼく」「僕」を使わないことは私とは違って生来とはいえない。

 私は高校生時代までは、一人称は、「オラ」「オレ」「オラタチ」。「ラ」と「レ」は状況によって自然に出ていたが、不思議と「オレタチ」は少なかった。“オラッ、知らね”、“オレがやってやるよ”、“オリャたちゃやってね~ヨ”。因みに二人称も「きみ」「君」は私は使ったことはないし、他からも殆ど聞いたことはなかった。例えば、昇という名の友人は、“のぼサ”、保高という名字の友人は、“ほたサ”、女性でも、“サ”をつけるとか、かなり目下の者には、“テメ”、ということもあったが、そもそも二人称の主語でよびかけることそのものが少なかったように思える。“サ”をつけるのは、今考えると、尊称の、“さん”の頭だけだったのだと思えるが、当時はそんな意識もなく使っていたと思う。
 もっとも、これらは話し言葉であって、書き物に、「私」、「僕」、「俺」等々あるのは十分承知であって、国語の教科書にその語があれば、正しく読んではいるのだが、こと自分の書くものには人称を必要とする場合は殆どなかったということだろう。作文や日記は当然書き手である自分が主語で、わざわざ人称を書かなくても通じる。三人称は、“サ”や“ちゃ”付けで大体すんでいたというところだろう。
 なお、家族では兄弟も多かったせいで、“おばあさま”、“とうちゃん”、“かあちゃん”は共通としても、一番上の兄は“にいちゃん”、二番目は“修ちゃ”、三番目は“真ちゃ”で、四番目の私は、下の二人の妹や近所の人達からは“あきろちゃ”であったが、そのほかでは、“あきろう”、という呼び捨てであった。ともあれ、家族のことは横道である。

 大学時代以降はどうか。“ぼく”、“きみ”など使ったこともない言葉を発するなどということは到底できなかった。えてして「主語無し会話」が多かったように思う。顔が合って話しかけるなら二人称に対して二人称抜きであり、相手から、“きみは・・・”と話しかけられたことに反応したのなら、私である一人称が、一人称抜きで話すのである。もともと大学は自分向きのところではない思いもよらないところだけに引っ掛かったわけで、一人称を表に出して自己主張するような機会は敢えて作らないというか、避けていたと思う。だから卒後50年になるが年賀状を交わす友人は一人である。

 社会人になった会社員時代は、役職あり、上下関係ありで、二人称については役職や、“くん”、“さん”付けで大概無難であった。社内をはじめ社会組織のなかでほぼ同列者のなかでは、“ぼく”、“きみ”を使っている人が結構いるが、自分はそれを使わなくても大学時代に比べたら自然体の対応ができるようになっていると思っている。こういう過程を経て、会社員時代の最終段階の窓際族化したときに著した『我が半生の記』にて、記述用語として一人称を「私」として、その後会社退職後、地域社会での諸共同体内においても、記述用語のみでなく、話し言葉としても一人称表現は「私」を自然体で使えるようになって現在に至っている。


 おもしろいものだと思う。同じように一般社会で普通の用語で私には使えない言葉がある。いくつかあるかもしれないが、すぐに思いつくのは、“おいしい”、である。自分では決して言ったことがないのは勿論だが、テレビなどでのこの言葉の頻発には、わざとらしさが感じられ、不快に感じることさえある。
 “うまい、うまい”、となんでも食べ、“まずい”、などといえるような幼少年期ではなかったとはいえ、本当に特別に、“うまい”
というほどの突出観ある“うまい”食べ物などないと思う。
 家庭内の食事に関して、家内が、“今日は何にする?”というのに対しての常套的な返事、“なんでもいい”、というのには家内はもう慣れているはずだが、こういう会話はまだ日常的にある。

 横道であるが、現実的には何品かある食事の時の食べる順序には確かに自分なりの型ができてきてはいる。相対的には、“うまさ”、の違いは認めているということか。早く食べなければ悪くなるというようなものは優先的に食べる事は別として、そのほかの与えられた範囲での私の食事法は、一番好きな品、即ち相対的に、“うまい”、品で終わらせるようになっている。ごはんと麺類とで1食とするときは、ご飯を食べてしまってから麺類を食べて終わらせる、などである。


 今回は内田樹の著書を読んでいる中での主題外れの閑話休題でした。次号でまた内田がらみに戻ります。

       

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