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おじんのつぶやき



  43.内田樹の理路を血肉にしたい(18.01.06)

 内田樹の理路は他でもつぶやいたように、あるロジックに、“「ふーんそうか」とうなずいてしまう人もいるかもしれないが、ちょっと待って欲しい”、という展開、いわば、当たり前に思える言説に対して「本当にそうだろうか」という展開が多い。

 例えば、いよいよ安倍首相は憲法改正に本腰になってきているようだが、2002年初版、即ち15年も前の内田の、『「おじさん」的思考』中のエッセイ、“「護憲」派とは違う憲法九条擁護論”、は今でも十分通用する。現に「自衛隊」というものが存在するのだから「明記」することは自然、というのが改憲論のロジックで、「そりゃそうだ」と大衆には思わせるのだが、内田は、
 “「戦争をしても良い条件」を実定的に定めること、どれほど合理的で厳密な規定であろうとも、「戦争をするためにクリアーすべき条件」を定めた法律は「戦争をしないための法律」ではなく、「戦争をするための法律」である”、とする。
 “「人を殺さなければならない場合がある」(現実論である)ということと「人を殺してもよい条件を確定する」ことのあいだには論理的関係はない”、“「人を殺してもよい条件」を確定した瞬間に、「人を殺してはならない」という禁戒は無効化されてしまうからだ”、という。現在の九条は、現実に自衛隊があろうがなかろうが、「人を殺してはならない」という禁戒が巌として在る。
 安倍の改憲案には「自衛隊」を明記するにあたって当然「合理的・厳密」にその性格(いろいろな行動条件規範を設けるなど)を規定するであろうが、まさに「2017年から2018年になるいま」の時点では、北朝鮮問題を「合理的で厳密な規定」として合致させることに頭を使い、「戦争も已む無し」を合理化してしまうだろう。恐ろしいことだ。

 以下、またランダムに思ったことなどをつぶやこう。まだ全手許著書完読状態ではないので私としての部分エッセイである。 
 朝日新聞のこと。朝日新聞記事を批判的に展開する場面に数回出くわした。私情であるが、複雑な気持ちで読んだ。しかし考えようによっては、他の新聞は、“箸にも棒にもかからぬ”からだ、とも思えて自分をなだめている。
 単に記事を引用し、その記事内容に対する持論の理路展開なら問題ない(こういうのも多い)が、新聞記事表現そのものに違和を唱え展開する場面にも出会うのだ。

 その1。
 『街場の現代思想』の中の「学歴について」では、“朝日新聞は「天声人語」でもコラムでも社説でも古賀議員の学歴詐称をなじっていた”、ではじまり、“しかし、学歴詐称というのは、そんなにたいしたことなんだろうか?”、というような展開である。いろいろな途中を省くが、“だから、学歴なんかどうだっていいじゃないかと私は思う”、であり、“朝日新聞の逆上ぶりを見て思うのは、「ああ、この記事を書いている人たちって、自分の学歴をすごく重く見ているんだろうな」ということである”、等々となる。
 古賀議員が辞職したほうがいいとする理由は、“学歴のようなどうでもいい情報を「貴重な情報」だと信じ込んで学歴詐称したからである”、そして“学歴偏重者と学歴詐称者はいずれも「学歴によって人間は判定される」という信憑において「精神の双生児」である”、と続くとまさに両成敗である。
 
 その2.
 もう一つの例。『こんな日本でよかったね』の中の「言葉の力」でである。学習指導要領改訂時期だったようだが、“文科省と平仄を合わせるように朝日新聞は先日から奇妙なコピーを掲げている”、としてそれを続けている。

 言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞

 内田はこれを見て、“肌に粟を生じた”、“こういうことを言う人間には言葉について語って欲しくない”、と手厳しい。レヴィナスの弟子を自認するだけあって俯瞰的に哲学に通底しており、朝日のコピーライターがラカンを、ウィトゲンシュタインを読んでいないことを責めているのではないとして、
 “しかし、思考するとはどういうことか、それを言葉で表現するとはどういうことかについて、少しでも深く考えたことのある人間なら、自分の言葉が自分の世界の境界であるということについての痛覚や病識はあってよいはずである”、
 “「日本語話者として私たちは自由に日本語を運用できており、それを用いて自由に感情を吐露したり、人を傷つけたりできているし、ときどき現実をすこしだけ変革することもできている」という道具的・カタログ的言語観と決別すべき時がきている”、
 でも判ったような判らないような。
 「言葉のチカラ」というワーディングをよしとする言語感覚の貧しさについて小田嶋隆の文を引用している。

 “言葉を信じることより、言葉のうさんくささを自覚して、常に自らをいましめることが、ジャーナリストたる者が持つべき心構えの第一条だと思う。言葉のチカラを安易に信じるジャーナリストは、包丁の切れ味に疑いを持たない板前と同じで、ダメな職人です。てか、素人。いつでも包丁のサビを気にかけて、メンテナンスを怠らず、間違っても生身の人間に向けて気を配るのが、まっとうな職人ってものだよ”

 「言葉の力を恐れる」が取るべき態度で、それは、「言葉のチカラを信じる」構えの対極だという。後者の、道具的・カタログ的言語観はソシュール以前的で100年古く、マルクス以前的とみると150年古い、これが内田の結論。

 上記その2そのものをもっと納得いくまで考えたり背景テキストを読んだりしなければならない必要性を感じるのだが、ここで、「朝日新聞のこと」というレベルでのつぶやきたいことがまだいくつもあって、ここで吐露するつもりで書き始めたのに、もう一つのことでそれなりの長さになってしまった。内田の一つ一つのページに比べ、私のページはそれなりに短く終わらせている。
 ちなみに、つぶやきたいことの例は、「靖国のこと」、「弱者 マジョリティ 格差社会」などのこと、「ボクということ」などいま思いつくだけでもいくつかある。そもそも末木文美士との関係での「他者論」で内田に最接近したのであって、そのことも含めてまだまだ先は長い。

 智の巨人内田樹、多くのひとが関心を持って欲しい、私は仏教哲学と通じているという意味からももっともっと「自分とはなにか」、「世界とはどうか」の追求の勉強を続けたい。
       

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