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おじんのつぶやき



  42.原理主義と機能主義(17.12.23)

 内田樹の『こんな日本でよかったね』のなかに表題の「原理主義と機能主義」というのがある。
 この本は副題に「構造主義的日本論」とあるように、“人間が語るときにその中で語っているのは他者であり、人間が何かをしているときその行動を律しているのは主体性ではなく構造”であるという主張を約40編に亘って展開しているものである。本人の日記ブログを編集者がまとめたもので、「半分以上私自身書いた覚えがない」などともいっている(これは行きがかり上の主張であろうが)。
 “本書中にはいろいろな時間の「内田樹」が書いたことが渾然と混じりあっています。その温度差や遅速の差や濃淡の差が、ある種の「和音」を響かせてみなさんがそれを聴き取ってくださったらいいな”と思っていると前書きにあるが、まさに「構造主義的」な表現だなと思ったものだった。
 それもそれ、『「おじさん」的思考』のなかの“「私」は私の多重人格のひとつにすぎない”という言説にぞっこん惚れ込んで、〈座右の銘〉のひとつに加え、すでにどこかでの自己紹介に使っている。

 ともあれ、こういう「構造主義的」知見での内田の全著書は、また「構造主義的」であることの説明でもあってトートロジーになってしまうが、謙抑的(私とは違う時間の中に生きている人には世界はどのように見えているのか私にはよくわからない)知性、「私にはよくわからない」から始まる知性活動で貫かれている。しかし展開する言説は時間の拡がりと深み、俯瞰的視野を感じ、視野狭窄、単眼的な読み手の私を共感させたり唸らせたりする。表題のテーマもその一つである。

 例の如く、マホメットのカリカチュアに対するイスラム圏からの抗議がらみでの書き出しである。しかし内田は、
 “怒らせる方も、人を怒らせようと思って仕掛けられたことで怒り出す方も賢いとは言われない。そしてそういったことに対して、「ことは賢いか賢くないかではなく、正しいか正しくないかだ」と力む人がいる。こういう方たちのことを「原理主義者」と呼ぶ。”
 としてさらにしばらく後の方を、少し長くなるが引用しよう。行替えは省く。

 “「これでなきゃダメ」というのが原理主義である。「使えるものがこれしかないなら、これで何とか折り合いをつけよう」というのが機能主義である。原理主義者は「リソースは無限である」ということを前提にして、至純にして最高のものを求める。機能主義者は「閉じられた世界、有限の時間、限られた資源」の中で、相対的に「よりましなもの」を求める。どちらがよりよい生き方であるかは決しがたい。けれども、無人島に漂着したときに、どちらが生き延びる確率が高いかはすぐわかる。むろん、私たちは無人島にいるわけではない。けれども、生きている間にはかなり「無人島」的な状況に遭遇するときもある。私は機能主義者である。私は人の判断や主張が「正しいか正しくないか」ということにはあまり(ぜんぜん)興味がない。私がもっぱら関心を寄せるのはそのソリューションが機能的かどうかである。”

 まず連想の1である。
 『箭喩経』によるのだが、ゴータマ・ブッダは「世界は時間的に有限であるか」等の質問には答えなかった。十難無記などとして知られる。これに哲学好き青年修行者マールンキャプッタは不満でブッダに訴えたときブッダはつぎのような趣旨のことを答えた。“たとえば毒矢に射られた人がいるとしよう。そして、その親族がその人を助けようととする。しかしもしその人が、この矢を射たのは誰か、この矢の材料は何か、などなど、これらすべてが判明するまでは矢を抜いてはならぬといったならば、その人はけっして助からないであろう。”と。「正しいか正しくないか」も歴史的位置やその他置かれた状況により一元的には決め得ないことも多々あり十難無記と同質的である。そして、私の、上記した“「私」は私の多重人格のひとつにすぎない”という座右の銘とは違うもっと前からの座右の銘、“侘は是れ吾れにあらず、更に何れの時をか待たん”にも通じる。
 しかしちょっと待て。では、第27号(仏教者の今次戦争責任について)をどのように評価するのか。“「私」は私の多重人格のひとつにすぎない”がまた実感として浮かび出る。無責任でなくアウフヘーベンしていきたい。

 連想の2である。
 「大相撲界問題」である。私は日馬富士問題とは受け取らない。私は大概こういうときアウトサイダーとなり、大勢の反感を受ける。この件に関しての呟きは、「構造主義的」理路はもしかしたら欠けているかもしれない。

 私は小学生時代、近所の仲間たちとの遊びの中で、そのとき公民館に来ていた芝居小屋の同い年くらいの少年とも意気投合して田畑や河原など飛び回って遊ぶなかでチャンバラごっこのとき、その芝居小屋の子の目のところにキズを負わしてしまった(どの個人がなどということは記憶にない)。そのキズを負った彼は、夜は小役として芝居に出ていたはずである。キズを化粧で繕ったかどうしたか判らなかったが、芝居小屋はまた次のところへ移動しなければならない。そんなこともあったが、この件で少なくとも親たちが、加害者側、被害者側ともにシャシャリ出ることはなかった。

 上記は「遊び」のなかでの出来事であった。翻って「大相撲界問題」の発端は「仲間の会」内の諍いである。「仲間の会」と「遊び」とは大して変わりはない。「ふざけ」のなかで「ケガ」が生じることだっていくらもある。協会や日馬富士のファンを含めて日本社会の99%はこの件を「暴力」問題として扱っているが、私は与しえない。「暴力」と「指導」の二者択一を迫り、「暴力」と決めつけていることに凄く違和感を感じる。仮に結果に「ケガ」というものが付随しても、だ。要するに二者の間には程度があって、「指導」の側から離れつつあったので白鵬らが止めたのである。翌日、日馬富士と貴ノ岩の談笑(か単なる話かは関係ない)する姿があったとの報道があった気がする。これが事実とすると、その後の方向は貴乃花親方の意図的な協会への反乱としか言えない。貴ノ岩さえ思わぬ方向にベクトルが組まれた。この事実(が本当とすると)の後は、全く違ったベクトル方向もあり得たはずだった。貴乃花に協会のみならず、メディア、政府、識者までが翻弄されたのだ。
 貴乃花は東京生まれで、いわゆる「ふるさと」を持たない。同郷人の会の意義など判らない。私は今回の事件では、貴ノ岩が貴乃花の命による行動をとっていたために、自身が「いたたまれない状況」に追い込まれていることで、貴乃花をも恨めしく思うようになりはしないかと危惧する。
 写真で見る限り、理事会での貴乃花の態度は(他の無言対応は勿論だが)、あんな人が協会全体を背負っていける器になりうるかと疑いたくなる。
 要は、メディアはじめ多く見かける報道のなかには、協会の「改革」ということで貴乃花側についているものがあるが、ここで本題の「原理主義」が出てくる。まさに貴乃花の動きには私には「原理主義」の動きを感じ取り、また、モンゴル力士を抱えての問題ながら子飼いモンゴル力士より上位の「モンゴル力士」に対する排外的な気分さえ感じる。
 ついでながら、『こんな日本でよかったね』のなかには表題に「変革が好きな人たち」というのがあって、内田はこういう。
“少数の主人と多数の従順な奴隷たちに社会を二極化して、反抗する人間を片っ端から粛清できるシステムでなければ、「社会を一気によくする」ことはできない。社会をよくするには「一気」と「ぼちぼち」の二つしか方法がない。私はあらゆる「一気に社会をよくする」プランの倫理性についても、そのようなプランを軽々に口にする人の知的能力に対しても懐疑的である。”

 だからとて、「原理主義はダメだ」というのもひとつの原理主義であるからそうはいわないが、“「私」は私の多重人格のひとつにすぎない”である。このページはいわゆるSNSではないからあまり反発はないだろうが、あっても、「あなたは間違っている」とかこちらの考えを押し付けるなどという愚かなことはするつもりはない。

       

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