復活

おじんのつぶやき



  41.内田樹-3(17.12.20)

 内田樹観については、第29号、第30号ころから触れてきている。途中には「知の巨人」と冠がついた週刊誌記事までシェアしたが、まさに「知識」(でも相当なものと伺えるが)の巨人というよりも「知性」の巨人である。
 私には当たり前に思える言説、それに対して「本当にそうだろうか」という展開が多い。あるロジックに“「ふーんそうか」とうなずいてしまう人もいるかもしれないが、ちょっと待って欲しい”という展開である。

 とても体系的に内田樹論など展開できないが、第30号的にまた少し気づき点をつぶやいてみよう。

「個人の原子化」鄒勢

 “親族、地域社会、企業などの中間共同体への帰属を「自己決定・自己実現」の障害要因とみなし、スタンドアローンで生きることを「善」としたさまざまな言説(広告からフェニミズムまで)にあおられて、日本人は「原子化」への道を歩んだ。”

 『こんな日本でよかったね』のなかの一文である。1980年代から全般化したという形容文がついている。
 この言説は、“「少子化問題」は存在しない”という短文のなかであったが、私には著者の主題とは違ういくつかのことがピーンと来た。

 ① 戦後の家族制度の大変革も、「あおる言説」とは別に制度としてこの趨勢に対して寄与しただろう
 ② 故郷でのお祭りや盆踊りなどの急激な衰退、 ③ クレーマーやエゴイストの常態化などの遠因を痛切に感じる
 ④ 「企業」など現在のまさに中核的で動的社会組織の「中においては」異議ありだ、などである。

 “個人の原子化はまず「市場のビッグバン」をもたらした。・・(中略)・・国民の頭数は変わらなくても、家族が解散すれば消費単位が増える。原子化と消費単位の細分化はそのようにしてバブル経済を準備し、下支えしたのである。”

 
これについてはこの通りだと思う。次の言説についてはいろいろな想いがある。

 “原子化は「自分らしい生き方」を求める個人にとっては、なかなかに快適なものである。ライフスタイルのすべてを自己決定できるからである。”

 自分のルーツなどについては旧サイトの「半生のひとこま」カテゴリーの初期に何回か記したところであるが、新民法下の新戸籍が夫婦親子を単位とするようになって、まず「親族」のしがらみは大きく緩和(?)された。もっとも当初はそれでも嫁・舅等の話題は事欠かなかった。しかし、それも“二世代住宅”、“近隣別居”等々で核家族化は進行し、ルーツのところで目にした20名近くの者が記された戸籍謄本などは恐らく今は世間を見回しても皆無になっているだろう。
 そして、この一小核家族においてさえ、今は子供には一部屋を与え、家族内別居ともいえる状況が増えた。
 かくいう「私」も同じマンション内に二室を持ち、一室を私一人、もう一室を家内と娘とで棲み分けている。夕食や洗濯や風呂などは別々にすることによる無駄はさすがに省いているが、一室一人は正直なところ「なかなかに快適」である。

 このような個人の原子化は個人ないし核家族化した小単位の流動性をも加速した。日本の人口動態の特徴(?)なのかどうか、都市部への人口集中、農漁村部の過疎化などにみられるものである。我が故郷は1960年代中ごろ以降、田地の構造改善で抒情的光景は変哲もない方眼紙的になってしまい、若者は都市部に移動ないし、通勤、また外部から、都市部に通う新住民がなだれ込み、お祭りや盆踊りなど私が子供のころは当たり前であった「地域社会」基盤行事が立ち行かなくなってしまった。地域共同体は崩壊である。

 原子化した個人は「自分勝手」になる。私はシルバー人材センターを通じて学校の関係の就業機会を5年余に亘って与えられた。我々の子供のころの50人学級とは違って、30人台の学級で、担任のほかに副担任を置いている。対保護者の関係業務が時間的だけでなく精神的にも先生方の負担を増大させていることを目の当たりにしてきた。そしてさらには、休日に電話を受ければ、“校庭での子供の声がうるさい”、である。“違うだろう!”と声を大にしていいたいところだ。自分の方が後から学校の近くに転居してきておいてこの「学校の当たり前の姿」に対してのこのような出来事は、先生方いわく、“もうしばしばですよ”。「自分らしい生き方」をはき違えている個人が多くなった。
 このようなエゴイスト、クレーマーが日常的になっていることは、ごみ処理場問題などに見られる地域エゴ、そしてこのことは、延いては核のごみ問題からさらに沖縄問題にまで連続するものだと私は思う。過去に私は、「原子力発電所は電気の使用量に応じた地域に設置せよ、東京都とか大阪府とか」的なこともつぶやいた。米軍基地も本土で引受けよ、これらの言説はみなアウトサイダー扱いなのである。
 
 以上の①②③を連想し、そして現在の自分個人が「自分らしい生き方」を求めてその方向のベクトルを進めていると感じ、かつある面では「なかなかに快適」であるのだが、現代社会を俯瞰するとき④のような異論を覚える。
 “ライフスタイルのすべてを自己決定できる”について、私にとっては、いや私には「一般的」とも思えるが、現代社会でのいわゆる諸組織の「現役」は違う。“ライフスタイルのすべてを自己決定できる”は、そのような組織を引退してからである。

 社会が資本主義化し、政治が官僚化した現在においては、②③が所属組織の外で(ある意味反動的に)見られるのに対して、その「同一個人」(レヴィナス-内田がいう「同一者」)が、その組織内においては、所属部門は「分子」としてその構成原子となり、そしてその分子は会社なり官庁なりという組織において固有物となって、その中の個人は「原子」であっても“ライフスタイルのすべてを自己決定できる”存在などでは決してない。それは私の36年間の企業人生活からも、そして、最近の国会中継に見られる一連の官僚答弁における組織絶対保護的行動をみても、このことだけは譲れない。少なくとも、「同一者」であっても、会社なり官庁なりという組織体、そういう社会組織内においては、自己決定などできない。少なくとも現在の日本では。

 よく言われる終身雇用を基盤とする日本的経営(企業でも官庁でも)体の特徴であるともいえる。M&Aだとか能力主義だとか適材適所だとかいろいろな経営学上のことが欧米流に言われようとも日本的に根づいた現在の「体制」は急転換などできてきていない。組織に呪縛されて組織の意を忖度して行動される。
 私は、このことが、一度実現した与野党逆転が失敗に帰し、今後も現在の自民党が下野しても、経済界および官僚組織が入れ替った大臣との相性が上手くいかず、また再逆転してしまう、私はそんな風に危惧している。財界、省庁すべてが「自民党政府」と密着してきてしまっているのだから、そして労働界は昔の総評のような力はないのだから種々悲観的にならざるをえない。欧米(特に米?)と比し、影響力を持つレベルの役職者たる単位個人の流動性が日本は非常に少ないのだから。どこかで書いたが、そしてそれは確かな裏付けを持ってのことではなかったが、米国は大統領が共和党、民主党で入れ替ると行政組織のかなりの陣容が総入れ替え的になると。

 今回は、だからどうだ、という結論にもたどりつけないような呟きになってしまった。
       

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