復活

おじんのつぶやき



  35.内田樹-2(17.11.30)

 前のつぶやきから一か月以上経過してしまった。

 仏教関係から何か社会に対してできるのかということを追求していく過程で、末木文美士や山折哲雄、竹村牧男などを読んでいて、少し当該面では期待後退的ニュアンスの感慨が深まってきたのであったが、一方で「他者」という言葉への気づきから内田樹の著書に向かっていま奮闘中という状況になっている。

 上のフレーズ(11月24日になっている)を書き始めてまた一週間経ち、もう明日から師走・12月である。
 本日、日本相撲協会危機管理委員会の「中間」報告を聞いたが、内田樹観は中間どころか、まさに緒に就いたばかりのところだが、私は彼の、 “「私」は私の多重人格のひとつにすぎない” という言説が好きで多分既にどこかで使ったが、まさに今の私の「多重人格のひとり」ないし「多重人格のアイデンティティのひとかけらもない今の自分」状況で、内田樹についてつぶやきたい。

 第29号で、内田樹の本がすでに、『日本辺境論』のほかに、『最終講義 生き延びるための六講』(技術評論社)、『寝ながら学べる構造主義』(文芸新書)、『「おじさん」的思考』(角川文庫)、『若者よマルクスを読もう』〈京著〉(かもがわ出版)と、予想以上に在ったことを書いた。
 その後、「他者」という言葉との兼ね合いで一気に『街場の文体論』、『街場の現代思想』、『他者と死者』、『こんな日本でよかったね』(すべて文芸春秋の「文集文庫」)と4冊も一度に入手してしまった。さらに新聞の下欄の週刊誌広告欄で、11.26号サンデー毎日に「知の巨人 内田樹氏 至極真っ当な提言! 安倍独裁制 本当の正体」を発見し、普段ほとんど週刊誌は入手などしたこともないのに新聞記事後数日経ってしまっていたのでコンビニを何軒か探し入手した。

 ブログの記事などで特定のテーマのもとに編集(コンピレート)した著作を内田自身がコンピ本と呼んでいるらしい。
 『「おじさん」的思考』、『街場の文体論』、『街場の現代思想』、『こんな日本でよかったね』、はコンピ本であり、週刊誌記事はそのようなもののなかでの一編の記事ともいえて、こういう本は記事ごとに区切れているのでそれなりに読み進むことができる(とはいえ、『「おじさん」的思考』は既読だったが、新入手のものでは『街場の現代思想』が読み終えただけ)。
 しかし、『他者と死者』は全然違う。副題は「ラカンによるレヴィナス」。冒頭の「他者」との関係でこれはなんとか読み切りたいという想いは強いのだが、全く進まない。いま一度読んだはずでしおりが入っている位置まで2度目の読みでようやくたどり着こうとしているところだ。まだ1割か2割である。深い大森林に足を踏み入れたばかりのところである。解説者は内田のこのようなジャンルの著作は「トリビュート本といえるのではないか」と言っているが、要は特定のことで全体を詳細に論述したもののようである。
 頭の方を読んでいて、なにが書いてあるのかちっとも理解できなくて、途中で巻末の「解説」に行くのは読書中でよくあることである。例の如くその流れで解説を見た。苦笑を越して本当に笑ってしまった。こうあるのだ。

 おそらく「コンピ本」で内田ファンになり、今までの流れでこの文春文庫版『他者と死者』を手に取ったものの途中であまりの厄介さに音をあげて、「どれ、解説を読んで早分かり」とこのページを開いている読者もおられるであろう。しかし、申し訳ないが、正直なところ私の能力ではそのような読者の期待にこたえることはできないし、それより何より、レヴィナスもラカンもそして内田先生も、「要するに」と一望俯瞰的に早分かりしたいというような横着はお許しにならないのである。

 別の本(『街場の現代思想』)にこんなくだりがある。
 “実存主義(カミュ、サルトル)、構造人類学(レヴィ=ストロース)、系譜学(フーコー)、社会史・心性史(アナール派)、イデオロギー批判(アルチュセール)、記号論(バルト)、ポストモダニズム(リオタール、ドゥルーズ)、デコンストラクション(デリダ)、精神分析(ラカン)、他者論(レヴィナス)・・・・・・など今日英米の大学において教科書的に教えられている人文・社会科学系の理説は、そのほとんどすべてがフランス産である”と。
 内田の著者紹介では、専門は「フランス現代思想、映画論、武道論」(『寝ながら学べる構造主義』)でなんとなく内田の立ち位置は想像できるが、かつて机上常備品のつもりで購入し書棚を飾っている『現代思想フォーカス88』(木田元編、新書館)や『図説・標準哲学史』(貫成人、新書館)には、参考文献的にも内田の名はない。学的「哲学」、学的「思想史」に組しないアウトサイダー的存在にみえる。

 内田は、『他者と死者』のあとがきに、次のようにあり、そこからも私からの内田の見え方が伺われる。
正直に申し上げるが、私はラカンの専門家ではないし、レヴィナスの専門家でもない(「自称弟子」ではあるが)。どちらの思想もよく理解していない人間が、・・・略…”   謙遜である。そしてあとがきの出だしは、

本書は、『レヴィナスと愛の現象学』(せりか書房、2001年)に続く、私としては二作目のレヴィナス論に当たる。副題「ラカンによるレヴィナス」が示すように、ラカンの精神分析理論を手がかりにして、レヴィナス哲学を読み解くという企てである。

 何故こんな「哲学」などという面倒なものを読む?
 私は上記から『レヴィナスと愛の現象学』を入手しなければならぬという気持ちが強い。「哲学」「哲学」です。 いいんです。物事を根本から見る、仏教「哲学」も同じ、とにかく私には苦労しながらも忌避する気持ちになりません。
 一連の仏教書と内田本との戦いの間に、高校卒業時同級生(土屋政雄、他に数冊訳し、原著者との交流をしているようだ)が訳して日本に紹介し、先にノーベル賞受賞したカズオ・ノグチ氏の『日の名残り』は、かっこ書きしたような縁により入手し、数日で読破してしまった。
 私には、芸術や文学は縁があれば触れることもあるが、執着が全く残らない。それに比べ、難しくても人文・社会科学系著書が居間と寝室を毎朝・夕、10冊前後抱えて行き来する(なお、内田は、芸術・文学、さらに武道、多岐に亘ってスケールの大きさは絶大。『「おじさん」的思考』のなかにある“第四章 「大人」になることー漱石の場合”などは文学のなかに思想を読む、私もかつて読んだ作品が題材化されているが、私は「読んだ」という記録だけ、内田には敬服の限りである)。 

 [内田樹関係ではまだまだ何回かつぶやく、必ずそのはず、今回はここで終わらせておく]

       

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