復活

おじんのつぶやき



  34.ニーチェの心境(17.10.24)

 私は国政選挙の結果が出るたびに、大ニーチェの一部分の心境の切り取りともいえるが、「畜群」め!、とこころのなかで叫ぶことになるのが常になっている。公的な新聞・放送などのメディアはさすがに露骨にこんな言葉は使わないが、内心は同じ感情を持つひとが少なからずいるだろうと私は想像する。
 ニーチェの「大衆社会」は成員たちが「群」をなしていて、もっぱら「隣の人と同じようにふるまう」ことを最優先に配慮するようにして成り立つ社会のことだが、群がある方向に向かうと、批判も懐疑もなしで、全員が雪崩をうつように同じ方向に殺到するという特徴を持つ。このような非主体的な群衆をニーチェは憎々しげに「畜群」と名づけたわけであるが、さらにニーチェは、このように、相互参照的に隣人を模倣し、集団全体が限りなく均質的になることに深い喜びを感じる人間たちを「奴隷」と名づけた。ニーチェにおいてはここから、その状態から抜け出ようとする意志に及び、「貴族」とか「超人」というような言葉も生まれてくるわけだが、この辺からは私のつぶやきたいところから外れるので止める。

 「畜群」だの「奴隷」だのという言葉を、哲学的文書でなく、このような日常的書き物に使ったら、これが翻訳語であって、原語だったらどうかはわからないが、日本語である以上、まず総スカンを食うだろう。
 もちろん、私とて、「畜群」ないし「奴隷」が対岸に居て、私がこちらに居る、などという「二元的」に考えているつもりはない。ひとりで全結果を向こうに回して論じるつもりはない。新聞の論調などには共感できるものが結構ある。しかし、それでもなお、「自制」観が裏にあるな、と感ずるのである。本音で私と同じく、「畜生め」とつぶやいているのではなかろうか。


 いくつか感じていることを備忘的に残しておく。支離滅裂な面もある「つぶやき」である。
 1.  日本人は「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める」、丸山眞男の論を引用して内田樹は『日本辺境論』で“世界のどんな国よりもふらふらきょろきょろして、最新流行の世界標準に雪崩を打って飛びついて、弊履を棄つるが如く伝統や古人の知恵を捨て、・・・・のうちに私たちは日本人としての「ナショナル・アイデンティティ」を見出した“、とあるように、私には酷く気に食わないが、選挙が近づくとメディアから盛んに当落予想なるものが出てきて、そのような情報をもとに投票し、「 受かった・受かった、あの予想どうりやったら受かった」というように単純に喜ぶひと、こういう人たちが現実に身の回りに居るのだ。「受かった」などという表現は、候補者の党籍・主張は横に置いて、いかにも自分の行動を「当選者」に結び付けることそのものを目的化していると言える。こんなことを書くと国民を侮辱している、となろうがあくまでも「一面」であることは当然だ。
 
 2.   資金力。与野党候補の街頭での顔写真の量、大きさ、選挙カー認識の程度を総合的にみるとまさに8:1どころではない。9:1くらいであった。野党候補が例のいざこざで、「排除」「踏み絵」に反抗して本来の野党に戻ってくれて、結果として比例区当選となり、それはそれで私の投票も生きたが、そのうえで小選挙区票もトップに肉薄していたので、この点では我が選挙区民を決して畜群だの奴隷的だのとはいえない良識が感じられはした。
 3.  今の衆議院議員の選挙制度は小選挙区と比例代表制と、それなりに工夫を繰り返し、たしか私の記憶では小沢一郎が音頭をとってできてきている制度として現在にいたっているものと理解している(間違っているかもしれない)であろうが、自身もっと選挙制度の歴史を学んでからでないと本当は言ってはいけないのだけれど、もう改善の余地はないのだろうか。わずかの差での当落、一票の格差等々・・・。小選挙区得票率と当選者数の比率にかなり乖離があるようにも聞いている。
  
 4.  36年間の企業人としての経験から、いわゆる「サラリーマン」は畜群、奴隷的であることが私にはその中から脱することによってまざまざと見えてきている。仮にその世界から脱したひとでも、その世界でトップクラスまで経験した人はそういう体質が依然変わらずにいることが多い。要は、日本経済を支えてきていたんだという自負の方が先に立っていて、資本主義の原理、企業は利益追求が大原則、全てがその方向に向けられているのだ。いろいろな企業群はみんながみんなベクトルはヒエラルヒーのトップ=時の内閣と経済3団体トップの方に向いているだけだ。横のベクトルは異端だ。企業群は大企業中心に非常にすそ野が広く、どうしても必然的に政治的立場を現状維持にするような目に見えない「力」が支配する。下記6.にも関係するが、日本における現状では政権交代のときは非常に混乱をきたすことになり、現にその歴史があって、企業人は、政権交代がなされないように飼いならされている。
 
 5.  「一番でなければ駄目なんですか?」、私にはいまでも非常に重要な視点であると思っている。この言が発せられた席にいた人は恐らくほとんどが「唖然」としただろう。とにかく、日本は戦後、追いつけ、追い越せに酔って今日に至っており、「私は」「私たちは」はちょっと横に置いて「我が国は」になってしまい、それが一番だ、どこより上だ、ということに酔いしれてしまっている。その対象はほとんど「経済力」関係である。「平和力」という指標は出しにくいだろうが、時々新聞で小さい記事で、日本は何十何番と大きな数値で報じられるのを見る。核兵器禁止条約などこそ日本は発議・第一に署名すべきなのに、・・・・。とにかく目指すは「経済」でも「軍事」でもない。
 〇〇ファースト、これは平和関係でないものは「エゴ」の方が私には気になる。
 また、こんなことを言うと異端、総スカンだろうが、スポーツでも、日本人が、一番だ、優勝だということに対し、その背後の努力などは評価するとしても、私には、全幅の喜びにはならない。敗者がいてからこそ意味のあるファーストであるが、それ以上に、私は別項でつぶやいたが、「自分も頑張らなければ」という奮い立ちより「自分の惨めさ」を浮き彫りにすることだってあるだろう。オリンピックはほかの国でやってくれたらよかったのに、と今でも思う。
 
 6.   確実な知識ではないが、アメリカの行政組織は大統領が変わると総入れ替えだというようなことを目にしたような気がする。まさか最下層の担当者までということはなかろうが、日本の中央省庁は、事務次官までは企業と同じような人事政策でヒエラルヒーが形成されており、またその全省庁を取りまとめるトップが内閣官房である以上、もし、与野党逆転などが起これば、二重のヒエラルヒーが大混乱が起こるということが、無言のうちになかにいる者には浸透されていることだろう。 

 要は、私が選挙で意の通りになったのは10~20%程度だろうと思うが、俯瞰的にみると、原理的にこうなるのが当たり前になっているのだろう、結論的にはそうなってしまうようだ。

       

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