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おじんのつぶやき



  33.「他者」論(17.10.27)

 第28号で、“末木文美士と内田樹の本をそれぞれ複数冊読んで、いろいろつぶやきたいのだが、焦点が絞れない。”、と書き出して、とりあえず「末木文美士」という題名でページを作った。内田樹についてのページも作った。

 私がたまたまこの二人の著作を併行的に読んでいたのだったが、末木の方に見慣れないというか耳慣れないというか、まさしく私にとっては「奇・希なることとして」受け取れたのだが、盛んに「他者」という語が出てくる。
 ところが、内田の方を深めていくとこちらにも『他者と死者』(文春文庫)などという著作がある。
 “焦点が絞れない”、とは書いたが、実のところこの「他者」という語に惹きつけられるというか、なにか読み飛ばせない想いを感じての焦点の定まらぬもやもや状態だったのだ。

 末木の『仏教vs.倫理』(ちくま学芸文庫版では『反・仏教学』)は、大きく、「Ⅰ 仏教を疑う」(1~9章)、「Ⅱ <人間>から<他者>へ」(10~20章)、「Ⅲ 他者から死者へ」(21~30章)という構成になっている。


   【中断:後日更新します】

【衆議院選挙が入り、途上でそちらのつぶやきを先にしてしまった。続きをつぶやいてアップ日を替えることとする】

 上記まで記していて少し冒頭のパラグラフに自分でも疑問を持ち始めていた。何故か?
 「他者」という言葉が、“見慣れないというか耳慣れないというか、まさしく私にとっては「奇・希なることとして」受け取れた”、なんて書いておきながら、
 1.  すでに自分の言葉として、第17号「将来世界を想うときのいたみ・不安」で、“いろいろな過去の教えを受けた恩ある上司であったひとでも、ひとたび組織の外に出たひとは、もう身近な他者とさえ見ない、もう隔たった他者とみる、こういう現実を私は見てきている。”などと使用している。
 2.  アマゾんの「本」の分類で、キーワードとして「他者」を入力したら、書名のタイトルないしサブタイトルにこの語が使用されている書籍が出てくるのだが、なんと“450”にも及んだ。内田の『他者と死者』ももちろん含まれている。
 3.  いろいろな辞書類でも、“ 自分以外のほかのもの。他人。 哲学で、あるものに対する他のもの(他のあるもの)。自己に対してある何かあるもの。⇔自己。” などである。

 人間の「社会」は自己だけで成り立っているのではないのだから、「他者」が、その意味合いの深さにおいて他の語に比べて物凄く幅がありそうだが、これではとても“見慣れない”では済まされないようだ。
 しかし、ここでページを作ろうとまでしてここに至ったのは、上記の3.の2でいう「哲学」的に使われる「場」において興味を感じたからだろう、いやこれでは無責任だ、「興味を感じたからである」。

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 「他者」が関心を呼び出したのは、末木の『日本仏教の可能性』あたりからだ。死者とどうかかわるか、ということに注力してきて、“相互了解”をキーワードにして、
 「すべての人間関係が、人の間として了解されている関係だけでうまくいくかというと、必ずしもそうはいかないことがいろいろ起こってきます」
 「今日、家庭のレベルにおいてさえお互いのルールを明確化し、原語化していくことができなくなっている。そういう中で出会われる了解不可能な者を「他者」とよぶことができる」
 「このような他者というのはお互いの了解している枠を超えて直面する、あるいは飛び込んでくる不可解な存在」
 「人と人の間としての「人間」の領域を逸脱し、超えていく」、であり、
 「亡くなった人、死者というのはそういう他者の一つの極限とみることができます」、となる。

 そうして末木は、存在するかしないかの二元論が前提での存在論中心の見方(哲学)に疑問を呈し、
 「実在するかどうかではなくて、どのような関係にあるのか、どのように関係を結ぶのがよいのか、このように問題をたてなおすことで、死者との関わりというのは、哲学的、理論的な問題として十分に考え得るものになっていく」、そしてしばらく後に、
 「内田樹さんが文字通り『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』という本を出されています。(中略)その説を解釈するのに内田氏は、レヴィナスのいう他者というのは恐らく死者のことではないかと言っているのです」
 内田樹と繋がってきたのだ。

 内田の『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』は、これはこれで難しい。なにをいっているのか分からず、途中で最後についている解説(門脇健)を読みにいった。そうしたら、途中に、
 「おそらく、「コンピ本」で内田ファンになり、今までの流れでこの文春文庫版『他者と死者』を手に取ったものの途中であまりの厄介さに音をあげて、「どれ、解説を読んで早分かり」とこのページを開いている読者もおられるであろう。しかし、申し訳ないが、正直なところ私の能力ではそのような読者の期待にこたえることはできないし、それより何より、レヴィナスもラカンもそして内田先生も、「要するに」と一望俯瞰的に早分かりしたいというような横着はお許しにならないのである」
 もう苦笑せざるを得なかった。


 末木はこのような哲学的思考を取り入れて、「現代」の仏教の果たしうる可能性について追及していることに対しては、私の関心事と通じるところがあり、敬意を表する。しかし、氏が深みをもって、来ついた葬式仏教の評価、靖国の問題、大きな物語の全否定に対しては、深みのない私から言うと観念的かもしれないが、異論を覚え、第28号 末木文美士で述べた。

 内田については『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』がまだ最初の方で往生しているばかりでなく、『街場の現代思想』、『こんな日本でよかったね 構造主義的日本論』、『街場の文体論』などが待っている。
 『「おじさん」的思考』や『日本辺境論』や『寝ながら学べる構造主義』などから、内田からの教訓はまだまだたくさん沸いてくるだろうと、第30号は、「内田樹の言説ー1」というようにその時点で、もうー2もー3もありうるだろうとの想定であったがまさにその通り。しかしこのー2やー3はいつになるか見当もつかない。

 「他者」論などという大そうな題名で始めたが、もっともっと勉強したのちにまた少し進んでこのテーマについてつぶやいてみようという機運が出たらまた書くことにして、まったく支離滅裂、半端この上なしだが今回はここで止める。

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