復活

おじんのつぶやき



  30.内田樹の言説ー1(17.09.23)

 前号に続いて内田樹である。彼の考え方に仏教と共通するところを見る。哲学の底辺が同じことを痛感する。

1.みんな違ってみんないい 
 “人々が世界共通語を語り、世界共通普遍宗教に帰依し、世界共通法を順守するようになったら、地球は平和で安定した状態になるだろうか。もちろんならない。むしろ、世界システムの安定性と永続性は危殆に瀕することになる。

 現段階での最大の国際的緊張は北朝鮮問題である。多くの一般日本人は、中国、ロシア、さらには韓国の対応に苛立ちを感じているのではないだろうか。しかし、この微妙なグラデーションがリスク分散上もっとも効果的であることは専門的政治家・外交官は承知している。当事国や上記の国、あるいは日本以外の多くの国も、様子見とはいえ、立ち位置は決して均等ではない。「ばらけている」ことがシステム全体の安定に必要なのである。「他国をもっては代えがたい国」になることを通じて国際社会における固有のエコロジカル・ニッチを確保し、システム・ダウンのリスクを回避するオプションを提供するのである。
 別のところで書いたが、「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光、微妙香潔」、阿弥陀経の中の一節であるが、みんな違ってみんないい、なのである。量産されたロボットだけの国を想像するとゾッとする。

2.常識を成文化することの危険
 “日本の国際戦略の大義は、交際社会において「蔑み」の対象となっても、「憎しみ」の対象とは決してならないことに存する。私はそう信じる。”

 中国、朝鮮半島2国、アジア諸国の人々の何世代にもわたるルサンチマンの虜囚に日本はなっている。真摯に受け入れねばならない。しかし今以上の上塗りをしてはいけない。ある国の軍隊が別の国へ行ってそこで人を殺すか、これが現代におけるリアルなことである。「口だけで言う」、少しは「金も出す」、しかし軍隊は出さない。これならまだ許せる。大義だの面目だのと「我(が)」を張ってはならない。「蔑み」も甘んじて受ける。
 仏教の戒にはいろいろあるが、十善戒あるいは多少ちがうが十重禁戒、この両者とも筆頭に挙げられるのは「不殺生」である。「諸悪莫作 衆善奉行 自浄碁意 是諸仏教」、七仏通誡偈であるが善悪の境界を判断できるようになりたいものだ。
 なお、“ときには人を殺さなければならない場合があることは事実である。しかし、そのことと「人を殺してもよい条件を確定する」ことのあいだには千里の径庭がある。”
 日本には現に「自衛隊があるというのは自明の事実である」。しかし、そのことと、憲法九条に「自衛隊の存在を明記する」こととは同様に千里の径庭がある。矛盾した二つの要請を多くの人は気分が悪いからとどちらかに片づけたがる。しかし、現在の、「軍隊を保持しない」を無効化してはいけない。「自衛隊の存在を明記する」ことは「現に戦争が行われており、自衛の必要がある」から「戦争は必要ならばしてもよい」になってしまうからである。

3.均質化ということはいけない
 “集団は均質であるべきであり、その構成員はその集団に固有の作法で判断し、行動すべきだ、という議論の立て方が私は生まれてからずっと嫌いである。”

 著者は日比谷高校というあの名門(現在とは違い130人余を毎年東大に送り込んでいた)校を途中で飛び出した。牢獄と称して。教育というものは集団の秩序ということとも関係があり悩ましいところだ。だから彼はドロップアウトし、誰にも迷惑をかけず、学校の秩序も乱さなかった。彼の学校教育に関する言説は各所にあるが、一つに、“学校から一切の「人格教育的要素」を排除する、限定された技術と情報を「オン・デマンド」で伝え・・・”、“ただしこれはほんとうの意味での「教育」ではない”。後半は大問題でちょっと措くとして、前半は、成績と人格のあいだには何の関係もないのであって、生徒の人格や個性についてはコメントするな、ということだ。[ちなみに私の中学生時代は、成績とは関係なく、クラス内において課された役職が私を締め付け通した。私の中学生時代はまさに勝手な受動的「人格教育的要素」が100%であった。]
 少しコメントが横滑りしたが、表題の言説は、自分の在り様に誇りをもてという自称リベラリストたちの論理矛盾を批判するところである。“「自分は・・・民族である」とか「自分は・・・人種である」とかいうことを、声高に言い立てる人が好きでない”、である。敷衍すれば、「自分は・・・県出身である」「自分は・・・で・・・の役職であった」というようなことも同じであろう(すぐ前に私がまさにそういう表現をしてしまっているが)。そこから想定されることが「・・・であれば当たり前」あるいは「・・・であることに誇りを持て」の表徴であろうが、その陰には惨めな想いをするマイノリティ(私にとっては全てのクラス内問題の責任を一手に負わされたという逆の表徴)がいる。むやみに常識的に見られる「当為」を振り回すのはやめよう。「常識」、「当たり前」的なものを更に俯瞰的にみるよう心がけよう。もともと、「<・・・である>から<・・・べきである>を導いてはならない」は、「自然主義的誤謬」といって、現代倫理学の基本的ドグマだそうだが、どうも深く考えられていない。
 仏教的にいえば「我(が)」が一番厄介なものである。「諸法無我」である。「色即是空」から考えよう。

TOPへ 戻る