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おじんのつぶやき



  29.内田樹の“凄さ”(17.09.23)

 内田樹と末木文美士の本をそれぞれ複数冊読んで、いろいろつぶやきたいのだが、焦点が絞れない。

 内田は東大文学部出で、フランス現代思想、映画論、武道論が専門とされているが、『おじさん的思考』のエッセイストによる「あとがき」の後ろに配された「解説」やこの『おじさん的思考』の中身から見る限り、文字ではなかなか言い表せないが“凄い”ひと、性格的に私とは対岸にあるが、まさに彼のいう「ロールモデル」にしたいとつくずく感じるひとである。
 数年前、『日本辺境論』で新書大賞を受賞したはずだ(私の蔵書は初版本だから記述はないが、恐らくその後の版本の帯には大書されているだろう)。

 エッセイストによれば、
 “内田さんはタフです。(中略)だってそもそも、親との対話がうまくいかなくなったと察知するやバイトをはじめ、お金を貯めてアパートを借り、家出したあげく高校もやめてしまう。さらには半年後、すごすご家にもどり、しかし大検を受けて大学に合格するとさっさと駒場寮にはいって家出、本懐を果たす”、とあり、『おじさん的思考』本文の中には、
 “私は家が私の自由を損なっており、高校は牢獄だと思い込んでいた。私があらがっていたのは具体的な内田家や日比谷高校ではなく、抽象的な「家庭」と「学校」という観念に対してであった。”

 当時の天下の日比谷高校、東大合格者130人余、当時私の通った高校も最高レベル時代だったようだが、30人前後だった。その30人前後の人の中には確かに苦労している様子もあまり見られず飄々として合格した者もあった。

 しかし、日比谷高校はそんなレベルではなかったらしい。
 “私が高校生の頃、(国語で間違った同級生がその後3年間くらい青春を強いられたことが記述され)、そのような緊張感ゆえに、その頃の私たちはある種の書物にいやおうなしに立ち向かうことを強いられた”、そして少し長くなるが、
 “苦役に耐えるようにして読まなければならない書物というものがある。高校生や大学生の手持ちの知識や感受性や理解力をもってしては、まったく歯が立たず、それを読み通すためには、自分の考え方の枠組みの容量をむりやり押し広げなければならないような、ときにはおのれの幼い世界観が解体する痛みに耐えねばならないような読書経験がある。高校生がマルクスやニーチェやドストエフスキーやバタイユを読むというのは、そのようなある意味では痛々しい経験である。『悪霊』や『内的体験』を読んでいる途中で(後略)”
 高校をドロップアウトして家を飛び出したいきさつについては、
 “一七歳のある日私はいきなり「世界」を一望できるような包括的な視座に立ちたいという強烈な欲望に襲われた・・・・いきなり「世界を一望する非人称的な視座」、いわば「ラプラスの魔」の視座を欲望するのである、・・・・私はニーチェを読み、マルクスを読み、フロイトを読んだ。・・・この三人は十七歳の「ウッドビイ知識人」にとってはこれ以上ないほどのベストチョイス・・・彼らは三人とも「世の中の常識というものは全部幻想である」と書いていた。・・・・”
 学校教育に関することに触れたところでは、
 “「知識」についていえば・・そんなものはいくらためこんでも何のたしにもならない。必要なのは「知識」ではなく「知性」である。「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこにいって、どのような手順をふめば手に入るか」を知っている、というのが「知性」のはたらきである。”

 いやはや、生まれたときにはお互いに「無」であるはずなのに17歳におけるこの差は何だ。「知識」はためこんでも何のたしにもならない、といいながら日比谷高生の多くはもはや東大に入るくらいの「知識」は当たり前で、その先を行っていたのだろうか。私は、そして多くの私の周囲の者も、17歳当時は大学受験目的の「知識」習得に汲々していたのが実態であった。
 上記引用の中の、マルクスやニーチェやドストエフスキーやバタイユ、『悪霊』や『内的体験』、「ラプラスの魔」、「ウッドビイ知識人」・・・・、現在古稀を過ぎたわが身に、未だ「知識」にさえなっていない。

 もともと田舎の五反百姓の四男であった私は、少年時代は、家業の稲作や養蚕業を手伝う素直な子(自分でいうのはおかしいが)で、ただ人間的にはひ弱で、遊ぶのも先頭に立ってなどということはまったくなく、仲間に入れてもらうだけという主体性の乏しい子であった。そんななかでも偶々勉強は「できた」方であったらしく(小学校のときはそういう認識すらもてなかったのに)、中学生になったら、二つの小学校から半々くらいに集まり5クラス編成され、その内の3組(3年間メンバーは同じ)クラスで「ルーム長」というのになってしまった。経緯は覚えがないが、1・2・3年で副ルーム長が次々交代するのに私だけ3年間その50人クラスのルーム長を「やらされた」。誰かが先生に怒られると自責の念にかられる、二人並び4列の席順では真ん中最前列(先生の前)に、表現は不穏当だが、それぞれの学年時、最問題児と並ばされる・・・・、こういう中学生時代は私にとって「暗黒時代」だった。
 中学生時代も勉強は、比較の問題であるが、できた。クラスからただ一人松本深志高校に入学した。

 冒頭に記した「対岸」という意味は上記であるとしても、17歳を含む高校生時代は、内田の“凄さ”を想わざるをえない。日比谷高生の当たり前の姿かというと、“高校は牢獄だと思っていた”に反する。
 当時の「あの」日比谷高生にも満足に同居できないくらいの際立った逸材だったことが思い知らされる。

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