復活

おじんのつぶやき



  28.末木文美士(17.09.23)

 末木文美士と内田樹の本をそれぞれ複数冊読んで、いろいろつぶやきたいのだが、焦点が絞れない。

 末木は1949年生まれ、内田は1950年生まれで、1944年生まれの私と大差ない。少年期、青年期を過ごした社会環境は地域により多少相違があろうとは思うが俯瞰的にはやはり大差ないといえるだろう。

 末木は東大印哲の出だが、「もともとお寺とは関係ない人間で、(中略)少し外から仏教を見ていますので、内部にいると見えないようなところが見えてくる、そういう利点はあろうかと思います。」という、宗門仏教者や多くのお寺出身の仏教学者に比べると少し異質には見える。仏教学専攻とはなっているが、日本宗教学(こんな呼び方は私の独断)者的で、私は、山折哲雄に似ていると感じている。
 末木の本は、『仏教vs.倫理』(ちくま学芸文庫)、『日本仏教の可能性』(春秋社)による。帯は、前者は「日本思想史から捉えなおす-生きた宗教とは?」であり、後者は「<仏教>を生きるとは何か!-日本仏教のはらむ問題点と課題を洗い出し、その可能性と未来を問う、迫真の日本仏教論」である。

 末木の、「大きな物語」が終了したという物言いに賛同できないということは先に第25号「大きな物語」で触れたが、末木の論を総括すると、
 仏教側から現代の問題(特に倫理的)に迫っていく場合、「死者とどう関わるか」、そこから「葬式仏教の再考」であり、そこに現代における底辺での神仏の相互関係をみて、「神仏習合から神仏補完へ」という形での「神仏再考」、そして、
 “他者の他者性は理解不可能なところにあると考え、相互了解を超えた超・倫理にぶつからざるを得ない、それを前提とした上で、可能な範囲に限定して公共的な倫理を見出す”、思想史を見直す、“神仏とともにあるのが当たり前であり、神仏が現実よりも実在的ではないとは誰も思っていない”ような世界観を明らかにしていくこと、
 これが、少なくとも『日本仏教の可能性』、『仏教vs.倫理』の言わんとしているところだと思う。


 いろいろつぶやきたい観点はある。取り敢えず二つ。
1.靖国問題について
 もともと、“葬式とか死者に絡む儀礼は仏教側で受け持ち、それに対して生命にかかわるような通過儀礼、例えば生まれたときにお参りしたり、あるいは七五三であるとか、おめでたい方の儀礼は神道側で行うという形で、補完関係がつくられていっていた”、神道式の葬儀もできるようになったが、人間の死者を祀るという点に関して神道は仏教を駆逐することができなかった、“ただその中で唯一成功した例が靖国だった”。
 そして、広島の、無宗教で平和運動と関わる形で行われている運動と対比させ、安芸門徒浄土真宗が大きな役割をはたしているのに表に出ることができない、“無宗教でやっていくことが果たして本当にいいのか”、とまで言っている。
 『仏教vs.倫理』では、“仏教が戒名に金銭で差別をつけて平気でいるのに対して、神道ではみな平等であり、靖国神社においても、一兵卒も将軍もまったく同じように祀られている。その論理からすれば、A級戦犯であっても差別はされないのは当然である”とまで言及している。
 私は、
①、靖国は、祀られている親族にとっては確かに仏教の菩提寺的意味合いも否定できない実体になっていることは認める。
②、しかし、A級戦犯のことは祀られる事の「平等」の観点とは違う論理で考えられるべきである。
③、広島の慰霊の方式に上記にあるような不都合があることなど初めて知った、それほどに問題は小さいものだ。
 以上により、A級戦犯さえ除去すれば、政府要人がお参りしようが、キリスト教徒者はどうかわからないが、無宗教の国立戦没死者追悼施設論議はろうそくの火のように消えていくだろう。広島の慰霊祭について、靖国ほどの論議の対象になっていないものを、とやかく変更する必要はない、これが私の考えだ。

2.「大きな物語の終焉」が終焉したのと同じではないか
 超・倫理を踏まえた「思想史を見直す」、これってまさに「大きな物語」を構築する必要を言っているのではないか。取りあえず日本に限っての論の進め方だから、「少し小さい」が、“神仏とともにある”という世界観、結構なことだと思う。“自分たちの祖先が長い時間の中に育んできた智慧の集積から、さまざまなことを学ぶ”、結構なことだと思う。
 著者は各所でマルクス主義の終焉に言及しているが、まさにヘーゲル・マルクスのあるいはブッダが教える人間の行持に関して俯瞰的にみる基本原則の上になるひとつの世界観であって、大きな物語に包摂されるものである、私はそう思う。


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