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おじんのつぶやき



  26.マルクス主義・内田樹・仏教(17.09.02)

 前号で、内田樹の、“「大きな物語」が消えてしまった”、で始まる『日本辺境論』に触れた。内田樹は好きではあり、書店店頭では著書をよく見かけ手にとるが、そんなに購入したという意識はなかった。しかし、あらためて『日本辺境論』が「大きな物語」関連で私を呼んでくれたので、書棚をみたら、『最終講義 生き延びるための六講』(技術評論社)、『寝ながら学べる構造主義』(文芸新書)、『「おじさん」的思考』(角川文庫)、『若者よマルクスを読もう』〈京著〉(かもがわ出版)と、予想以上に在った。

 『寝ながら学べる構造主義』と『「おじさん」的思考』をまた手にした。過去に読んだ形跡があるのに内容についての記憶はすっ飛んでいる。これは老化・健忘症にもよるだろう。ともあれ、いちいちが新鮮で、まだ両方とも途中であり、この段階でもう何かをつぶやこうなどということは「おこがましい」とも感じるが、この年齢、思い立った時にやらねばもう後は無しである。

 内田は仏教の「ぶ」の字も皆無のフランス現代思想の学者である(注1)。とにかく読んでいて、「仏教思想」との近似に感動せざるを得ない。「仏教」という場合、哲学的な面は「法」・「仏法」で、人間形成というか宗教的な面は「道」・「仏道」というように重点の置き方でニュアンスは違ってくるが、仏教思想は前者である。
 思想の根本たる哲学とは、例えば竹田青嗣『中学生からの哲学「超」入門』(ちくまプリマー新書)の章建てが、「自分とは何者か」「世界はどうなっているか」「なぜルールがあるのか」「幸福とは何か」であるし、廣松渉『新哲学入門』(岩波新書)の章建てが、「認識するとはどういうことか」「存在するとはどういうことか」「実践するとはどういうことか」であるし、池田晶子『14歳からの哲学』(トランスビュー)の副題が、「考えるための教科書」、となっていることでもニュアンス的には想像 [こんな表現も、私は学者でないから許していただきたい] がつくように、根本の真理への飽くなき追究、「考える」、「智を愛する」知的活動といえる。

(注1:フランス文学なり思想家には仏教に関心を持つ人が多いように思われる。ウィトゲンシュタインと仏教や道元や禅を繋げた著書多数の黒崎宏であり、『正法眼蔵』関係の著書多数のフランス現代思想・文学家の森本和夫であり、また『正法眼蔵を読む』の寺田透もフランス文学者だ。『道元断章』など著書多数の中野孝次はフランスでなくドイツ文学者であるが、一緒にすぐに思い当たる。なお、内田樹は武道家であり武道論も専門にしていて古武道に精通している由だが、よくいわれる「禅」との関係については知るところではない。)

 内田の『寝ながら学べる構造主義』には前号で、私がよく使う、そして意識している言葉としての「俯瞰」も使われている。
 いわく、
 “ヘーゲルのいう「自己意識」とは、要するに、いったん自分のポジションから離れて、そのポジションを振り返るということです。自分自身のフレームワークから逃れ出て、想像的にしつらえた俯瞰的な視座から、地上の自分や自分の周辺の事態を一望することです”(p30)。
 内田は、構造主義前史としての「地ならし」者としてマルクスについて言及し、途中には、
 “マルクスの知見はこれまでも、これからもおそらくつねに有効です”(p21)という断定文章も挟み、上記の、
 “ヘーゲルの人間理解はマルクス主義から実存主義を経由して構造主義に至るまで、ヨーロッパ思想に一貫して伏流しています”(p28)と、ヘーゲル、マルクス思想(哲学)が依然として底流にあることを述べている。
 さらに、
 “自己同一性を確定した主体がまずあって、それが次々と他の人々と関係しつつ「自己実現する」のではありません。ネットワークの中に投げ込まれたものが、そこで「作り出した」意味や価値によって、おのれが誰であるかを回顧的に知る。主体性の起源は、主体の「存在」にではなく、主体の「行動」のうちにある。これが構造主義のいちばん根本にあり、すべての構造主義者に共有されている考え方です。それは見たとおり、ヘーゲルとマルクスから二十世紀の思考が継承したものなのです。” (p32)

 この内田の著は「構造主義」について書かれたものだから、「地」ならし者としてさらにフロイト、ニーチェを論じ、章を改めて、始祖としてのソシュールを論じ、さらにその後、“「四銃士」活躍す”、というもとに、フーコー、バルト、レヴィ-ストロース、ラカンが第3章から第6章までひとり1章で「構造主義」の本論(多分、まだ読破してないから予想)として論述されている。

 なんと仏教のいうところと共通することか。
 “ヘーゲルのいう・・・”の文は、私の考える「俯瞰的にみよ」でもあるが、仏教的に考えれば、出発点、いわゆる原点を「空・無心」にしてその時の時間軸、平面軸から出発せよ、ということであろう。
 [ただし、これだけの短文では、同じ内田の『「おじさん」的思考』では批判の的となる。なんとなく、「いま」「ここ」を重視した次の動向が「横並び志向」になりがち、別の時つぶやこうと思うが、人間は、“みんな違ってみんないい”、“青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光”、であり、内田は当為とか均質的集団を非常に嫌い、アウトサイダーを自認している。私もこのHPつぶやきで何度となくアウトサイダーであることを表明している。それなのに、内田の『「おじさん」的思考』には、これならいいではないか、と思われることを、さらにその底を抉り、一律化に向かう危険性などに及ぶに至り、感服する。]

 “自己同一性・・・・”の文は、「諸法無我」いわゆる「空」で、存在は「縁起」によってのみ成り立つことと同じである。「諸業無常」にも通ずる。さすがに「涅槃寂静」、「一切皆苦」的なところはいまのところ感ぜられないが、哲学思想全般を見渡せば、善悪とか人生の意味とか自由とか・・・、深入りすれば必ず底で仏教の基本に繋がってくると私には思える。マルキシズムで“宗教は阿片だ”といわれたことは知る人ぞ知るところであろうが、この言だけをもってマルクスの知見を退けることは人類にとって不幸の極みである。「宗教」も哲学思想の題材の一面であり、マルクス主義哲学、仏教哲学は底流において、「私には」という条件つきで、感性的なものであるが、共通するところ大だと痛感している。

 関連があるが、私は第一次サイトの「おじんのつぶやき第119号」で、文章でながら、、世界を三次元で見えるところを記した。第137号でも再録している。新自由主義批判に絡む論調のなかでのものだからスパンは近代だが、スパンを代えればまさに前号の途中、「森の中に、・・・・」に続いてしまう。

 もう一度前号前文(線の前)の締めくくり文を再掲しよう。

 時空ともに俯瞰的観点から徐々に問題を狭め、コトに当たること、昔(会社員時代)はともかく「いま」の信条である。

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