復活

おじんのつぶやき



  25.「大きな物語」(17.08.25)

 私は、「俯瞰」という言葉をちょくちょく使う。「鳥瞰」とも同じだが、こちらは使わない。ただ字義は後者の方が分り易い。
 ともあれ、どちらかというと空間的事象に使うことが多く、かつてはシルバーの新聞「こえ」に「地図は面白い」というシリーズを投書し載せた(自分は編集委員で記事不足などもよく補った)ときにも使った。しかし私はこの語は時間的にも自分の考えていることを表現するのに使う。時空関係なしに私は「俯瞰的」にみることが非常に重要だと考えている。

 この号の冒頭に使おうと、最近読んだ本のなかに、“ある質問をされたときに、それはどういうスパンでの質問か、を確認して応答する”、というような旨のことを書いてあったところが頭の隅にあり、4日間ほど最近読んだ本を片っ端からパラパラとそれも1度だけでなく何回も繰り返しその部分を探したが、見つけ出すことができなかった。
 借り物でなく、自分の言葉で書こう。

 森の中に迷い込んで「さあ、どうしよう」、国の内政問題が論議されているのに対し「さあ、どうしよう」、北朝鮮問題など国際問題が緊張しているなかで「さあ、どうしよう」、宇宙ステーションからみると森林の減少・地球全体の温暖化がみえるが「さあ、どうしよう」、宇宙には大小数知れない星があって動き回っており、ほんの埃一粒の地球は「さあ、どうしよう」、空間的スパンのことである。私はよく、アリの群がりをみて人間社会を想うことがある。

 一方、宇宙や地球の太古の歴史はさておいて、私たちが社会科で習った人間の祖先は「北京原人」や「ネアンデルタール人」であったと思う。今は違うようである。このような人種?は全くいまの我々の祖先「ホモサピエンス」とは別で、既に絶えてしまったのだそうである。ホモサピエンスもいつか「絶滅危惧種」になる。その兆候は「俯瞰的」にみると痛切に感じられる。キリスト教なら「終末論」、しかし仏教の「末法」の時代はなんとなくそのまま受け入れられる。
 46億年前に地球は誕生し、16万年プラスマイナス4万年に人類は誕生した。でも我々が承知している人類の歴史はせいぜい5千年~1万年程度である。刹那である。思いあがってはいけないことを教えてくれる。

 時空ともに俯瞰的観点から徐々に問題を狭め、コトに当たること、昔(会社員時代)はともかく「いま」の信条である。

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 私は仏教を、宗派的ではなく、哲学的、倫理的等の観点でたくさん読んでいることは今までのページ作成の経過などから周知のことと思われるが、今回の号の構想のきっかけは末木文美士『日本仏教の可能性』(春秋社)である。

 従来より私は、大乗・小乗ということへの不納得、仏教的観点からこの現代社会の諸相に見られる不条理をなんとかすることができないか、というような観点に強く関心を持ってきていた。
 後者については、行きつくところが「日蓮」になってしまい、日蓮は好きでなく(好き嫌いは煩悩だが)、やはり「一箇・半箇」かというように引き下がりつつある。
 前者については、何冊か読んだ本のどこかにあったのだが、先の戦争のアジア諸国への進出が「大乗的見地」だなどという名目も語られたということも含め、まだまだ私的にはスッキリしないが本号の趣旨ではない。

 末木の本は、いろいろなことを教えてくれて、別掲したいことはたくさんあるが、本号の主題は「大きな物語り」である。
 末木の論には靖国のこと、葬式仏教のこと等、ひとことつぶやきたいことはたくさんあり後日触れずにはいられない。 

 “唯物史観といわれるマルクス主義の歴史観が限界に至り、それに伴って、「大きな物語」の消滅という事態が生じています。”、“1991年にソヴィエト連邦が消滅して、共産圏がなくなり、それが「歴史の終わり」などといわれる”、(ちなみに『歴史の終わり』はアメリカの政治経済学者、フランシス・フクヤマの著)等、「大きな物語」の消滅を断定している。もちろん解釈違いはあろうが、私には不満であった。私流の解釈で「大きな物語」はいまでも、いやいまこそ必要と考えていたので。

 「大きな物語」についていろいろ渉猟した。

 高田明典『世界をよくする現代思想入門』(ちくま新書)
 「大きな物語」は<現代思想の「現代」>という章の一つの節、「文学・芸術・建築―現在進行形としてのポストモダニズム」というところに初めて出てくる。“二十世紀後半を特徴づける概念として「大きな物語への不信」があるが、そのようななかで芸術表現はいったい「何ができるのか」ということを考えたのが、ポストモダニズムのそもそもの端緒、ポストモダニズムとは、端的に言えば、「個別の物語の構築を勧奨する営み」”で、“「理性・知性によって社会は必ず理想郷へと近づいていく」とか、「科学は、私たちを幸福にしてくれる」とか、「勉強すれば社会的に成功して幸福になれる」とか、「お金持ちになることが、人間の幸せである」などなどの「物語」”であったと言える、とある。
 9・11のことが書いてあるが、アメリカの物語とアラブの物語の「衝突」に原因があり、跡地建築コンペで、具体的解決方法が「ポストモダン建築」家が勝ったのは「当然」ともいえるし、「歴史の皮肉」ともいえる、としている。
 後方に載せてあるブックガイドでリオタールの項に、「大きな物語への不信」を表明し、「啓蒙というプロジェクトの失敗」を宣言しており、「ポストモダン」という言葉を流布させるうえで最大級の貢献をしているが、著者高田はこの人だけで「ポストモダン」や「ポストモダニズム」を理解するのは困難、としている。


 内田樹『日本辺境論』 (新調新書)
 第Ⅰ章「日本人は辺境人である」の出だしの節は、“「大きな物語」が消えてしまった”であり、本文冒頭第1文が、“「ビッグピクチャー」について一言。今回あえて、「大雑把な論述」を心がけているのは、「大きな物語」、「マクロヒストリー」の市場価値が現在ほぼ底値であることに対するささやかな異議申し立てでもあります。”、だ。
 この著は題名が示す通り、決して「大きな物語」について縷々述べるものではなく、“「辺境性」という補助線を引くことで日本文化の特殊性を際立たせること”、かつて梅棹忠夫が『文明の生態史観』で言っていた、“日本人にも[中略]文化水準の客観的な評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している、一種のかげのようなものだ。ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところは、なんとなくおとっているという意識である。おそらくこれは、はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族のひとつとしてスタートした民族のちがいであろうとおもう。”を引用して、それを主張の要約だ、としている。
 「大きな物語」が底値であることの「異議」がどこで申したてられているのかはまだ熟読が必要か?あるいは全体が「大きな物語」のなかの「日本辺境論」か。


 香山リカ『世の中の意見が<私>と違うとき読む本』(幻冬舎新書)
 私の最近の関心事に火をつけた本のひとつ。初めて読むのではなく、何かの関連で再び手にしたのだったが、序章で、精神病理学者の著作に、「自己の挫折や喪失を嘆き苦悩するメランコリー性語り」が急増している、その台頭の理由として「大きな物語の衰退」という概念で説明しているが、その先は「わかりやすさ」への志向が関係しているのではないか、と香山は概略説明したのち、これはよくない、なんとかしようという動きがもう一つの流れとしてあるとの紹介の方で、 “「大きな物語の終焉」が終焉した?”という小題のもと、内田樹の今マルクスが再び読まれ始めていることに対して述べられていることや、“正義論ブーム”などをあげて論を進めている。
 もともと香山のこの本は、“現代社会が抱える多くの複雑な問題について、どうやって結論をだすかなどということはむずかしい問題だが、とりあえずの結論の出し方、自分の立場の決め方について考えていきたい”とするものであって、それはそれでいっぱい示唆に富んだ内容だが、ここでの私の関心どころは「大きな物語」である。(私の会社員時代はまさにここで取り上げられている「メランコリー語り」であったことを告白しておこう)。

 もっとたくさん本を漁ったが読書感想文欄でないからよそう。この第17号で、
“仏教は権力を超えるので、(実は私はその面よりも、「無」を起点にして考えることを重視している)マルクス主義同様に、大きく、相対的に、私がいう「俯瞰的」に人間社会を、時間的・空間的に視ることができる”、ことを書いた。
 倫理、道徳は時代状況に左右される。倫理、道徳をも「超える」ような「大きな物語」はやはり必要だ、今のように個人も、国も、地域もが「我」に閉じこもる状態は良くない、ある意味「資本主義」の必然的成り行きのようで、マルクス的ものの考え方は絶対に復権しなければならない、そう感じている。

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