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おじんのつぶやき



  22.社会のことを仏教に求めるのは無理(17.07.29)

 私は企業人時代後半にメンタルな病気を経験し、一つは、現在も薬を服用しているが「医学」で、もう一つは、偶然の流れからであったが、「仏教に触れたこと」で少なくとも「こころ」の問題(会社員時代にそれを「問題」認識していたわけではないが)は退職を境として画然とした違いになっていることを自覚している。

 画然とした違い、要は「こころ」の状態が退職前よりもはるかに「安定」しているのだが、それでいてどうしても釈然としない。それははっきり言って、「私」というレベルと、「社会・世界・人類・生きとし生けるもの」というレベルとの隔絶である。外界にみる諸相を「私」という自分はもう少しなんとかできぬものか、その諸相は私にとっては「苦」と感じられる、だから私は完全な「安心(あんじん)」は得られ得ない、このようなジレンマである。
 第17号でもこんなことを書いている。

    仏教の自利・利他、大乗・小乗、これらへの私自身の明確な納得が得られていないことはこの過去号で何度かつぶやいているところだが、自分だけの「安心(あんじん)」を求める、と大乗から非難される小乗も、私に言わせれば、周りの人・社会の健全でない状況をみていて「自身の安心」が得られるものか、私はそういう不安などもない状況を「自分の安心」と考えるから、これと違う大乗とは何か、と問い続けていたのだ。

 では「広い範囲」の自利は?そう、“即ち自身の「安心」も100%には達しない”としたその「100%安心」である。具体的にいえば、(上記再録部分最後の)「現代社会・世界のあり方に危惧を感ずるという苦」を払拭できない、それに対する「いらだち」のようなものを抱えていることである。
 

 竹村牧男『仏教は本当に意味があるか』(大東出版社)の第6章「現代社会と仏教」の一部に準拠したつぶやき。

 現代社会はまさに「末期的」である。鎌倉時代に盛んに言われた末法史観はさておいても、自然破壊・環境破壊、さらには超高速のスピードで運営される電脳社会で現実と非現実の境界不明確化、このような時代を主導してきている科学の世界観、これは時に問題が発生すれば自覚的にまた科学の方法で課題解決を進める、この底に能率・効率を求め、果てしない競争原理が貫徹されスパイラルに展開していくこの「社会システム」。
 現象的には、南極における大氷塊の亀裂、アラスカの大規模な砂漠化が伝えられる一方、「我」、「我々」、「我が国」と実態のない看板を前にした醜い政治・経済的争いが絶えない(自分も「私は」と看板を前に書いていることに違和感をもち、反省はしているのだが、・・・・・・)。
 人間の社会のシステムが人間そのものを置き去りにするという病態であり、人間の心、精神を根底で揺るがしている。自然・社会・精神の各地平において衰弱の態を露わにしており、この時代を生きる人間としてこの深い病理を直視し、「私」はいかにふるまうべきか、である。

 仏教には無我や空の教えがある。自体の存在、本体、実態を否定する思想である。関係主義、事的世界観へということで現代思想の傾向(旧来科学の方法の限界を悟り、わり切れない、不定型なものをどう明らかにするかなどの課題を自覚的に追及するようになっているなど)にも通じるところである。仏教がこのように実体的存在の否定を説くのは、我々の「我」(主体的存在)や「法」(客体的存在)へのしがみつき、執着の苦から解放するという実践的目的のためであった。
 しかし現代はヴァーチャルの時代で、一切実体的存在ではない、一切は空である、虚構であると説いてもそれを冷めた目で承知しつつ(テレビ画像は実体ないことは知っている、アニメに描かれるものは観念上のものだと承知しているなど)人々は接している。愛着・執着を解く、沈静化するなどと言う[私が仏教の大義名分の一部と信じている]ことには役立たなくなっているのではないか。

 また、仏教には縁起の思想がある。因と果についてのものであるとはいえ、果がどのようにもたらされるかがどちらかというと主で、因の側から主体的に結果をいかに創っていくかという視点が希薄、つまり受け身的で主体的でないと言われる。

 仏教の根本真理と言われる「無我」「空」「縁起」についてこうまで冷めた見方で、「極めて有効な思想とは言い難い」とすると、この論調は、私には非常にショックだ。

 牧村はこういう仏教の「限界」に触れた後の節で「仏教の本義」として『スッタニパータ』の聖句に戻る。

 沢山のスッタニパータ聖句を引用し、かなり長い節となっているが、まとめれば「あらゆる二元対立を離れて、絶対の主体を自覚したとき、その主体はおのづから無縁の大悲を発揮するようになる、無我・空・縁起はそこに繋がるとき意味を持つ、もし無我・空・縁起を究極だとみてしまうともう“断定を下して得た固執の住居”に住むことになる、両極端にも中間にも染汚されてはならない」「自ら主人公となり根源的な主体を確立して他者との関係を生き抜く、人間の原点再確認、自己と他者存在の再確認と、混迷を深める現代でも深い地平において一人一人に生きる方向を与える、その限りで仏教はなお多くの意味を持つ」としている。


 以上が竹村に期待した部分の私の意見を加えた要約なのだが、ここから連想されるのは、「天上天下唯我独尊」であったり、「上求菩提下化衆生」であったり、十牛図の「入廛垂手」であったり、浄土系の「還相回向」であったり、禅語の「主人公」であったりと沢山あるが、どうも私の期待するところに不足である気持ちが拭えない。
 考えてみれば、当たり前なのだが、冒頭の「現代社会・世界のあり方に危惧を感ずるという苦」などというものは仏教が対応する「他者」の問題の苦ではなく、自分を含めた人間の集団=「社会」の問題の苦であって、前号の社会人類学ないし社会学あるいは経済学や歴史学等の対象なのである。

 ここから導かれる私なりの結論は、少なくとも目前の「社会・世界・人類・生きとし生けるもの」への対応は、一箇半箇なりとも仏教の「正法」、それも意識的でなく自己のビヘイビアの基となる良種子が阿頼耶識に薫習されるよう仏教の勉強に引き続き努める、ということ。
 私にはかすかに、先の戦争の折、仏教者が体制に加担したことがあり、再び同じことがあってはならないという想いがある。「私は」とか「我が国は」とかを看板にすることへの危惧を覚える。「平和力」より「経済力」に重点が置かれている状況、内の諸格差を対北朝鮮等の外交に目を逸らそうとする動きに危惧を覚える。

 今回のつぶやきは、こんな流れにするつもりもなく、思いもしない流れになってしまい締まりがなくなった。
 題名も替えた。

 

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