復活

おじんのつぶやき



  21.「単一社会の理論」(17.07.26)

 私は前号、第20号のなかで、「安倍政権の傲慢さに腹が立つ」という流れのなかで次のようにつぶやいた。

国政ではないが7月2日に都議選があり、自民大敗で、その後の支持率低下報道などもあって、対応が少し変わってきているが、大勢は結局同じだろうと思う。閉会中の審議に安倍自身が応じるとなったとしても、詭弁で言い逃れるだけでいわゆるなんともじれったい「政治家論議」を「やった」という実績作りだけだろう。

 結果はまさにその通りであった。かなり平身低頭ではあったが、結果論としての「シロ・クロ」は曖昧のままであった。
 私は、第17号「将来世界を想う時のいたみ・不安」で、“組織人間のビヘイビア”に関して、一旦現状に憤慨しながらも、次に、自分もそうであった、と次のようにつぶやいた。

ひとたび組織の外に出たひとは、もう身近な他者とさえ見ない、もう隔たった他者とみる、こういう現実を私は見てきている。「ひと」としての行動ビヘイビアよりも無意識に組織人間としてのビヘイビアを採ってしまうのだ

 さらに、旧サイトの一番初め(「ぶらりわが街」の第1号)であったが、こんな記述をしていた。

散歩をしていると、さざんかがいたるところで見られる。こんなにどこにもあるということは、通勤で、朝晩決まった道しか歩いていなかった昨年までは知らなかった新発見である。


 中根千枝『タテ社会の人間関係-単一社会の理論』がある。学生時代ころロングセラーだった。講談社現代新書を紐解いてみる。
 日本の社会を新しく解明するという始まりで、“「日本人の特質」ではなく、あくまで「単一社会の理論」とよぶべきもの”を社会学・経済学・歴史学などとは違う“社会人類学”で「社会構造の比較研究」をしたものである。社会人類学の研究は、基礎が人の行動の観察に出発しているので、社会組織自体のみでなく、その社会の人々の考え方、行動様式をも論理的な一貫性においてある程度説明しうる、としている。

 本論は、社会集団の構成要員は抽象的にとらえると、「資格」と「場」が設定でき、日本の社会は「場」を強調する。
場、すなわち会社とか大学とかいう枠が、社会的に集団構成、集団認識に大きな役割をもっているのであって、個人のもつ資格自体は第二の問題となってくる”のである。

 ・ 日本の企業の社会集団としての特色は、それ自体が「家族的」であることと、従業員の私生活に及ぶ
 ・ 嫁の立場そっくりの従業員
 ・ 一体感と孤立性を促進する家風・社風
 ・ 「ウチの者以外は人間にあらず」の感   等々「場」による集団の特性が語られる
 
 ・ 「いったん離れてしまえばもうおしまい」などという小題の塊りもある。

場の共通性によって構成された集団は、枠によって閉ざされた世界を形成し、成員のエモーショナルな全面的参加により、一体感が醸成されて、集団として強い機能をもつようになるわけであるが[中略]集団が大きい場合、個々の構成員をしっかりと結びつける一定の組織が必要であり、力学的にも必然的に組織ができる、これを便宜的に「タテ」の組織と呼ぶ”、「ヨコ」の関係は、理論的にカースト、階級的なものに発展し、「タテ」の関係は親分・子分関係、官僚組織によって象徴される。



 私が第17号でいみじくもつぶやいた自分の行動ビヘイビアは退職するまでがっちりと「タテ」組織のなかに組み込まれていて、中にいる限り外は見えないのだということを認識した述懐だったのだ。
 外の「組織」だけではない。旧サイトでの、退職後の身の回りの世界への感動なども同じである。この「タテ」組織のなかにいる限り、いくら外界のテレビや新聞に触れていようとも中根がいう「タテ社会の人間関係」には合致してしまうのである。

 本書は勿論「どうあるべきか」を扱ったものではない。日本の社会現象を材料に社会人類学上の「社会構造」、その特色、中の人間関係等々を叙述しているが、50年以上前のこの叙述がまさに「いまの」世界情勢・世界現象にまでそっくり当てはまる。あえて、「日本の」でなくて「世界」と勝手に私が考えたのは北朝鮮を意識したからである。中根は主として対比する場合はインド社会に言及していたが、私にはいまの北朝鮮が強固な「単一社会」であり、ヒットラーやムッソリーニと質的に近いと考えているからである。
注:中根の記述のなかに、「東條英機はヒットラーやムッソリーニと質的に異なるリーダーであった」、それは、「制約されるリ-ダーシップ」という章の流れのなかで、個人の力より、序列や内外の条件に支えられてのものという日本的社会構造にあるとの記述があるが、ヒットラーやムッソリーニについてはそれ以上触れられていない。

 世界については付論しただけである。
 書きたい、つぶやきたいことは現在起きている日本社会、政治をめぐる社会集団の動向である。

 前川氏は「外に出たから言いうる」のであって、なかにいたらまず言えない。それから私だから言えるかもしれないが、前川氏は次官を辞めさせられることに不満は程度はべつとして「あった」のだろうと思う。わたしからいわせれば、順風漫歩だとずっと「タテ」組織の延長が続く。自己を見直すなどということはしない。その好例が文部省の先輩で愛媛県知事をしたという参考人である。100回以上あったが加計の「カ」の字も、総理も自分も出したことがない、という。総理はともかく自分が100回会って一度も口に出さないなんてことは「ウソ」に決まっている。もう与野党ともに彼には言わせるだけで心は見下していて重要視していないとみていいだろう。


 問題はそのほかの連中である。二人の補佐官や財務省高官である。確実に彼らは「タテ」組織の「なか」にまだあり、敢えて弁護的にいえば、保身とかいうような「意識」のレベルではないと思う。意識より下、仏教でいうなら末那識・阿頼耶識のなせるワザ、まさに「タテ」社会の特徴である。ある意味では、北朝鮮国民同様、彼らにしては当たり前の行動をしているのである。「自分個人」でなく、「家」を「組織」を守る彼らなりの最善策をしているにすぎないのである。「同僚・同種の集団は互いに敵となる」:企業集団を考えればわかりやすい。今回事案についていえば、安倍を頂点とする官邸と関係省庁が一方の「タテ」社会、野党連合がもう一方の「タテ」社会。
 野党の質問力とかそんなものの問題ではない。私は結果的にできなかったから偉そうには言えないが、こんなときこそ「仏教的」見方、第17号に書いたものを簡略化して示す。「俯瞰」、これが必要なのだ。

“権力を超えようとする仏教的な精神の働きは、ものをみる眺望や展望をひろげるのに貢献する、[中略]マルクス的思考の体系のなかには、権力との戦いをとおして、当の権力を相対化していく視点がつねに含まれている、社会の全体が見えなくては社会の発展を予測することができないように、人類の運命をつかむことなくしては人類の幸福を真に特定することはむずかしいのではないだろうか。「たたかう」ことと「こえる」こととを同時に考えようとするとき、仏教は、マルクスの根本思想とともに私には有効な思想武器であるように思われるのである。”

 中根の本には昨今“はやり”の「忖度」という語は出てこない。
 すくなくとも私は企業人時代は上司が、トップがどう考えるかは常に身体全体=意識下での反応、であった。はずれて馬鹿をみたこともあるが、北朝鮮はこの「忖度」のし損ない、的外れが「死」にさえ至る。
 それはともかく、「タテ」社会では「忖度」は必然・必至であり、中根にもこの方面からの考察も欲しかった。

 もう1点、中根の分析は「社会人類学」で、「日本の集団構造の超歴史的同一性」を論じており、「社会学」ならその変革ないし改善が検討しうるが、もともとの日本民族のあり方だとすると、変革は容易ではなく(唯一明治維新はそれかもしれないが)、私には論理的過程を説明できないが、自民党(合同前を含め)政権に対する野党は、一時的に与党になってもすぐに瓦解してしまう点もこの辺にあるのではないだろうか、なんて考えてしまう。安倍政権の人気急落で仮に現野党連合が政権をとっても、数年後にはまた自民党系に戻ってしまうのではないかと考えてしまう、この辺の考え方にも中根に意見を仰ぎたいものである。
 

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