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おじんのつぶやき



  2.他不是吾(16.6.26)

  「侘は是れ吾れにあらず」、原文は「他」だが、「侘」として、道元に私淑するようになるかなりの初期に青山俊董の『道元禅師に学ぶ人生』(NHKライブラリー)で接し、以降座右の銘にもしているフレーズである。
 青山は道元の心を大切にしてあえてこの「侘」を使っているとしているが、考えてみればその理屈はよく理解できない。しかし初めて接したものでもあり私も「侘」に親しみを感じている。

 幼少のころ、嫁に行く前の叔母に、「明朗はズクなしだなあ」とよく言われたものだ。それもそのはず、炬燵に籠ってしまっていて、「しょんべんをしたいけどだれか行ってきてくれねかな」なんて言っていたのだから。
 生理的なことはその欲求を他人に替ってしてもらうことができないことは誰でも判っている。

 しかし、「侘は是れ吾れにあらず」、凄い言葉だと思う。もちろんもう前の旧サイトの「宗教・仏教・道元」カテゴリーのどこかで取り上げたテーマなのだろうが、道元が宋で、背骨が弓のように曲がった体で、日がカンカン照りのもと、キノコを干している老典座に「どうしてお手伝いのひとにやらせないのですか」と問うたのに対して返ってきた一言である。
 まさに修証一等、老典座にとって「自分の」修行中なのであり、他人にやらせたのでは自分に何も残らない、その姿が「仏」であることを道元は思い知らされたのであろう。この老典座にとっては意識は「空」であったことと思うが、上記の「生理的」事象同様、身心自分と一体となった行動だったのであろう。
 めんどうなこと、苦労多いことはなるべく人にやらせて、楽な方へ楽な方へと人は行きがちで、そして得をしたように思うかもしれないが、違う!、そういうことをやらせていただいていること、経験を積ませていただいていること、それは修行をさせていただいていることでありがたい、徳を積ませていただいていることでありがたい、そういうことなのである。
 生理的な欲求ならば成就されると気分「スッキリ」なのだろうが、こちらは「人生充実」というところだろう。というよりは、充実感を積極的に感じる、というよりは、私には、「空虚感」を感じない、ということに繋がるのだと思う。
 私は第一人生終了後(退職後)のいままでの6回目の干支サイクルにおいて特に感じている。

 ただ、この一言に関係して、私にはちょっと「うしろめたい」ことが思い浮かぶ。それは、人を使うことの上手いひと、上に立つことが適しているひと、こういう人たちが居るということ、それに対して私はその「真反対」に居ること、こういうことが思い浮かぶことがある。この「思い浮かぶことがあること」そのものが「うしろめたい」のである。

 私は、前号でつぶやいたように、洗面器の底を脱した。
 上記のようなことが思い浮かぶことがないよう、空無心に眼前の諸事象に誠心誠意で対応していこう、「侘は是れ吾れにあらず」を身体に滲み込んだ無意識にまで高めて残り少なくなった人生、7回目の干支サイクルを歩んで行こう、常々そう思っているこのごろである。

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