復活

おじんのつぶやき



  18.断片的な共鳴(17.06.25)

仏教関係の講義を聴いていたり、仏教関係の書物を読んいたりするときに、その場ですごく共鳴し、「なるほどな」とか座右の銘語のひとつにでもしようなどと思いマークしていて、そしてそれが続けばよいのだが、次に同じところをなぞると、「アレッ、どうしてどのようにここに感動したんだろう」というような場面に遭遇し戸惑うことがある。
 最初の直感に少しでも辿ってみようと思う。

指頭をもて指頭をとることを会取すべし
 
 道元の『正法眼蔵』「虚空」にある一文である。

 「典座教訓」のなかの“侘は是れ吾れにあらず”“更に何れの時をか待たん”は私の座右の銘でもあることは過去に何回か触れた。ただこれは道元が在宋の折の、暑い日差しのなかで一生懸命キノコを干していた老典座との会話での、道元でなく老典座の言である。“山僧(道元自身のこと)便ち休す”であった。まだ若いころの、道元自身も別の典座との文字・弁道の因縁と併せて、“山僧、聊か文字を知り、弁道を了ずるは、乃ち彼の典座の大恩なり”だったのである。凄いことばだと思う。

 実は道元は宋から帰国し『正法眼蔵』を著すが、このなかには凄い言い回しがいっぱいあるはずで、何回かそのような場に直面したが、とにかく難しい。復習しても講義を聴いていた時の感動が蘇らない。道元の言語表現は、『学道用心集』や「典座教訓」が含まれる『永平清規』など一部には判り易く書かれているものもあるが、『正法眼蔵』は後から書き足されたとされる十二巻本を除けば通常では歯がたたない。
 必要とあらば明快に説明する文章が書けるのに、「言葉を越えた何ものか、根源的な何ものかをそのつど表し、それによって存在を成立させるような言葉」「言葉を越えた存在以前を言語化することで存在が成立」することを言わんとする(シリーズ・哲学のエッセンス『道元』、賴住光子、NHK出版)等道元の言語論そのものも我々にとっては学習対象でさえある。
 29年上期の武蔵野大学三鷹サテライト教室での中野東禅先生の講義は、「般若心経と正法眼蔵」でよむ仏教の「こころ学」、との総称のもと『正法眼蔵』の「摩訶般若波羅蜜」「虚空」「観音」の巻である。23年後期も同じコースであったが、何度聞いても自分のものにはならない。
 禅語というものは沢山あり、関係する本もいっぱいあるが、そういうような、いわば数文字の「単語」ではなく、道元の言い回しのフレーズがいちいちほとんどがまさに“銘”なのである。「現成公案」巻冒頭の4文そのもの、そしてよく知られているのは、『大般涅槃経』のなかの「一切衆生悉有仏性」の「悉有仏性」を、文法的に「悉く仏性有り」であるのに、「悉有は仏性なり」と読んで論を進める(『正法眼蔵』の「仏性」巻)など前後関係とのなかで一文、一文を光らせているのである。

 ぐだぐだ横道はさておき、「虚空」にあるこの一文、特別に取り上げている書物に出合ったこともないし、冒頭の繰り返しになるが、どうしてどのようにここに感動したんだろうかと首をかしげるくらいである。
 「虚空」巻は、「空」(=真実そのもの)のあり方は「そこばくあるべし」として二人の僧の問答、“汝還た虚空を捉得せんことを解す麼”から、一人(西堂)は「手を以て虚空を撮す」がもう一人(石鞏)は相手の鼻を掴んで引っ張った。これを道元は論評していって、全真理世界=空は「虚空」という概念の入る隙間はないが、「空を生きる」と「空を自覚する」という違いがあり、“しばらく参学すべし”となる。しかし道元は、相手の鼻を掴んだ僧を“いささか捉虚空の威儀を知れり”とするも、その前に置かれた文章が冒頭文なのである。“捉虚空なるべくば、みづから石鞏の鼻孔をとるべし。指頭をもて指頭をとることを会取すべし。”という文脈である。自分自身で痛みなど実感して、自分の体験で「空」=真実になり切って「捉虚空」を共有すべし、と言う事らしい。
 “虚空をもて思量を現成し、不思量を現成せり”と、虚空=自由さ、あるべきよう、素直、空・無心、をもって、説明ができない思量以前=真実を、“参学するのみなり。”となっている。
 仏教では盛んに「成り切る」という言葉が使われる、私の選んだ一文はそれに通じるのではないだろうか、また、“侘は是れ吾れにあらず”“更に何れの時をか待たん”にも通じるのではなかろうか。



戒を護る→後悔しない→喜びが生じる→心身が軽安になる→涅槃に至る
 
 どうということもないような図式だと思う。特別な本ではない。NHKこころの時代『唯識に生きる』(横山紘一)の「深層からの健康」という章のなかにサラッと出ていてたまたま“アッそうか”と感じただけである。
 戒・定・慧といういわゆる三学という修行道の全体の枠組みをいう言葉がある。ただ、戒ないし戒律というと比丘の二百五十戒とか比丘尼の三百四十八戒などというものが先にどうしても目に入ってしまい、“そんなに細かく規定にしばられなくてはならないのか”、というように考えてしまい、定(これも実際に「座る」は敬遠したままだが)や慧に比べ敬遠しがちだ。しかし上の文は、戒を護ることが延いては涅槃に繋がるという図式である。
 さすがに在家者である我々には五戒(不殺生、不偸盗、不淫、不妄語、不飲酒)とか十善戒(不殺生、不偸盗、不淫、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貪欲、不瞋恚、不邪見)のように分り易いもので、“不”を取った行動をした後の後味の悪さはだれしも承知であろう。「こころの“不健康”を生じる」そして病気も「気」からというように「心」のみならず「身」にも不健康を生じがちなのである。
 もともとこれらの戒を含む三学は、苦集滅道の四諦の第四、悟りへの道を説く道諦で具体的には八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)に対応するもので、なかなか護れないものもあるが、日常において、身心の健康維持のためにも後悔しない行・業に努めたいものである。
 

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