復活

おじんのつぶやき



  17.将来世界を想う時のいたみ・不安(17.06.17)

 直截的にいま想っている(苦である)ことをまずはきだしてしまいたい。
  1.   文科省、内閣府、官邸をめぐる件、それぞれのヒエラルヒーの中の個は、三者を俯瞰的に見ることはできなくて、無意識に組織のヒエラルヒーの瓦解がないように動いてしまう。これは私が会社員を脱して「自由」な身になって初めて自身でも判ったことで、中のひとはメディアがいくら喧伝しても大枠で見れる人は通常は極小のひと、そしてその人が多少でも表面に出ると潰される、こういう現代社会の根柢の問題。
 
 
  2.   人間は生まれたときからレールに乗ってしまっている。いわゆる「洗脳」され続けている。狭義の教育だけではない。生まれたときから「社会」のなかに組み込まれてその環境のなかで育ってきている。少しその社会を俯瞰できる人でも、「その社会」をせいぜい背中から見るくらいで、「その社会」を超えた「世界」「宇宙」までも俯瞰できる人は少ない。北朝鮮の人々、いや先の大戦時の普通の人々を思い起こしてみよう。
 
 
  3.   上のような状況において、「北朝鮮の人々は気の毒だね」「安倍政治は将来に対して危険極まりない」云々という感情を持つ以外に「我」の採る道はないのだろうか。メディアの発達した現代社会、そのメディアも、例のY紙は政府広報紙に任じられたと思いきや、発達した通信機器でニュース(MSNやYahooニュース等々)などを見てちょっと違和感を感じたと思えば全て配信先はやはりS紙、ある意味「いまでは」報道の自由があるかに思えるが、私のここまでの記述さえ「共謀罪」に問われぬとは言い切れない、でもなにが自分にできるのか。
 
 
  4.   仏教の自利・利他、大乗・小乗、これらへの私自身の明確な納得が得られていないことはこの過去号で何度かつぶやいているところだが、自分だけの「安心(あんじん)」を求める、と大乗から非難される小乗も、私に言わせれば、周りの人や社会の健全でない状況をみていて「自身の安心」が得られるものか、私はそういう不安などもない状況を「自分の安心」と考えるから、これと違う大乗とは何か、と問い続けていたのだ。   


前号の最後の方の一部を再録する。

 「私の言いたいことは『読売新聞』を見てくれ」と公に報道されているなかで、「読売新聞社」内に、体制べったりメディアに成り下がったという忸怩たる想いをなすものは居ないのか、……。
 前川前文部事務次官の件では、直後にはそこに部下たる第三者がいたのに同調するもの、あるいは内部告発する者は居ないのか、とも考えたが、すぐに「そういえば自分の会社員時代」はと思い直した。いろいろな過去の教えを受けた恩ある上司であったひとでも、ひとたび組織の外に出たひとは、もう身近な他者とさえ見ない、もう隔たった他者とみる、こういう現実を私は見てきている。「ひと」としての行動ビヘイビアよりも無意識に組織人間としてのビヘイビアを採ってしまうのだ[このことについては、再録部にさらに加えたくなった。下記に(注)を加える]。全く余談だが、菅官房長官に対する印象が以前とガラッと替った、これについては多言は控えよう。[中略]、それが自利・利他の考え方ともちょっとニュアンスの違った、「社会」「世界」への対し方、このことが、最近の「苦」の最大のものであり、まさに「つぶやきたい」ことなのである。自利、即ち自身の「安心」も100%には達しないのである。[中略]、私が「苦」としてつぶやきたいことは、最近の世情から見る社会・世界のあり方への危惧である。
・ とにかく安倍政治の方向、これは絶対に是正されなければいけない
・ 世界動向、トランプ出現による世界史の流れの逆流

(注)組織から出てみて判った自身の関係体験、①労働組合役員選挙のときは「以心伝心」で外すひと(共産党支持者)が徹底される、文書には残らない、②自分の経験として外部の監査を受ける表面に常に立ち続けたが、あるとき私は何のてらいもなくある記録のファイルを提示したが、それが社内で問題になり、上司などは夜中に提示したファイルを検査、私は何がどう悪いのかを考えるより、上司に申し訳ない、会社に申し訳ない、が先に立ち一睡もできない日々が続いたことがあった(なにも問題はもちろん無かった)、③ことほど左様に、組織内では「真実」「正直」以上に無意識に圧するものがあり、組織を超えた市民の立場、国民の立場などに想いが至らないのが通常、…… このようなことを考え得る今の自由な自分がいる一方で、大多数を占める公共機関や企業の人達は「無意識」:第6識「意識」の下の第7識「末那識」、第8識「阿頼耶識」、根源的いのちである「阿頼耶識」が染汚されており、この浄化、これをなんとかしなければいけないというところに行きつく。仏教書は「個人」に向かって説くが、人民の、国民の、市民の、というようなことを考えると「洗脳」とか「革命」とかいう用語が自然に頭に浮かんでくる。
   (影の声:“共謀罪”でとっ捕まるヨ)


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 私は、「悟っている」などというつもりは毛頭ないが、今日も一日、まあ、良かったな、という程度の「狭い範囲」での自利(こんな言い方をされているものを見たこともない、私の造語である)はもうよいと思っている。
 [こんな言い方をするとまさに根本煩悩の“慢”(*注)ともいえようが、そのことはさておく]。
注:“慢”十の根本煩悩のうち最初の三つ、貪・瞋・癡を三毒、これに慢・疑・見を加えて六随眠、見だけをさらに5種に数えて十随眠とするが、そのうちの「慢」は、自分の見たこと、思ったこと、自分の意見、自分の尊厳を守ろうとする。そこから心が上昇する。つまり「のぼせ」である。その結果、他に対して、自分を高い立場におこうとし、他者に対する不敬を生じる(中野東禅『煩悩の整理学』)

 では「広い範囲」の自利は?そう、上記再録部分で“即ち自身の「安心」も100%には達しない”としたその「100%安心」である。具体的にいえば、上記再録部分最後の「現代社会・世界のあり方に危惧を感ずるという苦」を払拭できない、それに対する「いらだち」のようなものを抱えていることである。

 ちょっと纏めようがないが、ここまで綴ったことも無にはしたくない。
 山折哲雄『仏教とは何か』中公新書の最終章の一部(204~205P)を転記する。

 仏教の考え方には、権力というものと戦うことよりも、それを超えるための工夫や知恵が多く含まれている。むろん戦いや争いはかならずしもそのまま破滅や悪に通じるものではないだろう。というのもそれによって、社会や人類の幸福に通ずる路を発見することができないわけではないからである。
 仏教はそのことを否定しないが、しかし権力を超えようとする仏教的な精神の働きは、ものをみる眺望や展望をひろげるのに貢献するだろうと私は考える。社会の発展よりも社会の全体が、そして人類の幸福よりも人類の運命がしだいにみえてくるはずだ、と考えるのである。
 これにたいして、社会の発展と人類の幸福を、戦いの場をとおして獲得しようとする考え方に周知のマルクスの思想がある。一見するに、このマルクスの考え方は仏教のそれと対立するようにも思われるが、私はかならずしもそうは受け取らない。というのもマルクス的思考の体系のなかには、権力との戦いをとおして、当の権力を相対化していく視点がつねに含まれていると思うからである。社会の全体が見えなくては社会の発展を予測することができないように、人類の運命をつかむことなくしては人類の幸福を真に特定することはむずかしいのではないだろうか。「たたかう」ことと「こえる」こととを同時に考えようとするとき、仏教は、マルクスの根本思想とともに私には有効な思想武器であるように思われるのである。


 仏教は、じれったいが、一箇半箇だ。
 マルクス、エンゲルスやレーニン・毛沢東などがそれなりにやはり偉大だったなどと思う。 

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