復活

おじんのつぶやき



  13.老化の自覚と「悔い」の思い出(16.10.20

まだ平均寿命前とはいいながら、干支は7周目にはいり、私としては予期以上の長生きをしている。しかしこの加齢に伴う自身の身体の状態というものは、その歳相応になってみないと自覚できない部分ということがあることをこの数年まざまざと痛感している。
 そして、このことから、早くに生家を離れてしまっていた私にとって、実家で暮らしていた両親の、時期はかなりちがってはいたが、各々の死期が近づいたころの「悔い」に想いを致すのである。
 両親が、公的診断によるのではないが、「要介護」時代に至って後の私の当人たちへの接し方が、何回も見舞いに行ったなどという弁明で済ませられないような、老いそして死に向かっている当人たちの「身心の状態」を充分慮って対峙していなかった、ある意味「私のいま」を自覚しなければわからなかった部分が多いにあったからとはいえ悔恨の情にかられるのである。

1.父について
 旧サイト、熟年夫婦ドライブ紀行のカテゴリー第30号に「親孝行ドライブ」というページがある。
 いろいろな内容を含んでしまったが、先頭と父に関係することは概要以下であった。
  93年9月1日から9月6日、家内の母を伊豆に尋ねて一泊後、母を伴い、私の実家へ行って両親を拾い、穂高で3人の親たちと一泊し、両親を実家に戻した後、長野に家内の叔母を尋ねてご機嫌伺いしてから八ヶ岳山麓で一泊、その日のうちに伊豆へ戻り、2泊して帰宅。

 例の上九一色村の本栖湖・精進湖をみてさらに北上、中央道甲府南ICにでて高速を北上、松本ICまで一気に行った。

 そこから12~3キロの実家に行き、事前の連絡で準備ができていた両親を乗せて、実家に立寄ることもなく、一夜預かりますと兄嫁に別れを告げてすぐに穂高の宿へ。常念岳の麓、二つのゴルフ場脇を通過した奥だった。
 義母、私の両親、私たち夫婦の5人での宿泊である。
 この日は父の84歳の誕生日だった。
 父は、翌年のこの誕生日をあと約3週間というところで達せられず8月12日が命日となったのだった。

 今や「3人の親たち」は全て他界しているが、記事内容は父の亡くなる1年前、父が84歳の誕生日のときのことであった。父はこの年の冬、自宅で転び、寝たきりになり、そして記事にあるように翌年亡くなった。
 これはまったくの表面的な経過報告である。因みにこの経過報告に付け加えるならば、翌年(1994年=平成6年)は4~5回実家に様子伺いに行った。


 ページ作りは一気にやってしまわなければいけないものだ。上記で2週間あまり中断、滞ったままだ。
 意図は、要約すると、この歳になって、「身」の面では排泄機構、眼、歯、足腰などの弱体化、「心」の面での認知機能の「思うようにならない日常」を語り、今になって両親の、”ああ、あのときは・・・だったんだな”と思いだされ、その時の私が、未経験による無知なるがゆえに判ったうえでの対応ができなかったという「悔い」となっている、これから私は、周囲の者たちには常々身心の状況は知っていてもらわねばならないなという反省にも繋がる、こんな、表題でほぼ判るだろうことを、父、母との接点の苦い思い出をからめて書こうとしたものだった。 もう止めよう。


 
 

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