半生の一こま


9.祖父の代に関する補遺(16.9.7)

 第7号で除籍謄本を見ての一風変わった父たちの本籍移動の状況をみた。
 父たちの父、即ち我ら兄弟の祖父の代については、体裁がかなり崩れてしまっているが、旧サイトの何か所かで観点は違うが触れた。「半生のひととき」カテゴリーの、9号90号、それから50号、そして122号などである。

 旧サイト50号と新サイト7号で使った図を再録する。


     
 祖父の代は8人兄弟で、私の祖父は二男であるが家を継いだことは上記各号で触れているところである。

 旧サイト第122号で長男の長市が、いわゆる「川井訓導事件」での主悪役にされていることを知った。第122号で初めて知った臼井吉見の『安曇野』においては、川井訓導その人自身の受け答え方、下を向いてばかりいて児童と顔を合わせない態度等も含めて淡々と記述されていたが、県内では反感一色であったようだ。その様子は旧サイト第122号で、諸関連サイトへリンクさせる形で触れた。

 戦後になっても、1987年(昭和62年)初版の権威ある岩波新書『日本教育小史』(山住正己)でも、5章建て第3章「軍国主義への加速する歩み」の「4.自主的な教育運動の展開とファシズムの進行」節に小題「川井訓導事件」として2ページも割かれている。

 ネットで「樋口長市」とだけで検索しても川井訓導事件と関連させる記事はかなり後方になる。自学教育論で大正期の八大教育主張の論者としての紹介が圧倒的だ。しかし、ネットで「樋口長市 川井訓導事件」で検索すると事情がちがってくる。川井訓導を主役に立てることが多くなる。
 しかしそのようななかでも、学芸大学の「樋口長市の生活教育論 : 生命思想の影響に着目して( fulltext )」
http://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/137792/1/18804306_66_06.pdf は結論を、
 「川井訓導事件以降,樋口の生活教育論の基底に彼の生涯を貫く実践課題と教育思想 が存在していたことを明らかにしたことにより,川井訓導事件への彼の関わり方については再検討の可能性が あることを提示することができた。」としている。

 この事件は1924年(大正13年)であるが、昭和5年の海蔵からの家督相続、さらに十数日後に我らの祖父代一族を分家化した、このとき長市は逆風吹き荒れる故郷に対してどのように振る舞ったのだろうか。

 近い祖先にもドラマがあったのである。 
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