半生の一こま


父親たち、一時東京に本籍(16.9.1)

 過日故郷ではじめての兄弟会が行われ、その席で父の妹の一人娘にあたる従妹が、”母ちゃんたち、一時東京に本籍があったんだね”と言っていた。
 私はすでに「旧サイト」の半生のひとときカテゴリー、第10号、第42号でそのことにつぶやき及んだ。
 今回そのことについて、図を入れて再現してみよう。

 戦前までの家父長制に基づく家督相続、そしてその順序という枠のなかで生じたことであった。ちなみに、先日天皇が、生前退位の希望を語られたが、天皇家においては未だこの制度は続いている。

 今回のテーマは、戸籍謄本によって語られる。従妹は母親の死により、相続者であるため、母親が記載されている生まれた時以降の全ての戸籍謄本の提出を求められたはずである。
 私も、もう20年以上前、平成6年(1994年)、父の死にあたり、そのときに収集した戸籍謄本を借りてコピーし、先述の「旧サイト」のつぶやきに至ったのだった。従妹はそれと全く同じものを取寄せていたはずで、そのときの感慨を口にしたのであろう。

 以下これらの戸籍謄本を図示するが、左から右に書かれているものを逆にしたこと、平面的なものを多少立体化してみたこと、などを承知しなければならない。

 まず、我らの祖父が「子」として位置づけられた代の謄本である。

 戸主が生きている間は、その下に連なる郎党の出入りは入籍で追記したり、除籍で項目追記すれば済む。
 上図で星印者は除籍者だが、注意点は@三男が「分家」で除籍になっていること、A長男、二男が無印者となっており、戸主のもとでの家業は二男が継いでおり、長男は東京に出ていること、であるが、
 このAが、家父長制のもと、戸主死亡に伴う珍事に繋がるのである。

 まずは当然上図での戸主死亡で、家督相続順位1位の長男が無印者を率いる戸籍簿が作成される。


 右図のようになる。
 しかし、これではいかにも不都合である。
 実家を守っている宇八は戸主でない。
 長男長市は東京で社会的地位にもある存在だ。


 そこで、全員を当時の長市の下へ転籍となるわけである。



 三男は「分家」で親子抜けているが、四男は子の昌大を残し、両親ともに先に他界してしまっていた。
 そこで、まずそっくり上図状態が、所番地のみ変わった形の戸籍ができる。

 
 長市家はこれで、戸主が死ぬまで安泰の戸籍となった。
 除籍者は記録を足せばよいし、嫁や子はその都度入籍させていけばよい。

 しかし、実家を守る宇八家は、見ず知らずの東京に戸籍があるとはいかにも不便だ。

 そこで*印の者「分家」で除籍だ。
 (星の数が図と注で違った、勘弁)

 なお、長市兄弟の三男は最初の図に「分家」を記したから居なく、そして四男利一は前述のとおり、夫妻ともに子供の昌大を残して他界しており、籍は長男のところに残された。

 

 上図での星印者6人が分家で新戸籍ができ、その後の我が母となる者の入籍、我ら兄弟出生による入籍と、一つ屋根の下の我が実家三代があらわされた自然な姿になった。
 (星の数は図には注記どおり反映していない。エクセルデータをpdf化、そしてjpeg化するときのいたずらだ。上の図も同じだ)

 私の記憶の範囲では亡くなっていた祖父とひとりの叔母は知らないが、一方、戦後の新戸籍制度で、同じ屋根の下でも世代違いで戸籍が作られるようになったので、その時点での「この」戸籍に残っていたのは二人だけ。逆に我ら兄弟の末の妹が、出生を契機に新戸籍作成に踏み切らざるをえなくなったようで、「この」戸籍簿には載ってこなかった。

 今は「この」戸籍のみでなく、父の代の戸籍も「除籍簿」となっている。我らがそれぞれ独立戸籍になっており、父が、そして母が亡くなることによってである。
 
 ともあれ、冒頭の従妹の母、私の叔母は「みつ子」で、この4通のいずれにも載っており、死後の処理に於いて同じものを入手したはずであり、第3図による約20日間の東京籍であったことを回想してのことであったのだ。
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