半生の一こま


真一兄作成図による旧家の思い出ーU(16.8.4)

 前号に続く真一兄作の図からの思い出。母屋。
 二階部分というか屋根裏については、真一兄作の図を見て、そういえばお座敷の上に部屋があったな、とあらためて思い出が蘇ってきたものだ。
 私は後で扱う「蚕室」で蚕を飼っていた場面は思いだせない。しきた蚕を運んで繭を作らせている場面はあったように思うが。
 蚕は専ら奥(西側)の二つの十畳間が襖を外し繋がれて飼われていた。
 部屋の仕切りは前(南側)の二つの十畳間の間は黒い板戸だったが、他は全て襖だった。

 玄関。図では自転車まで描かれている。私の印象は出入り口が二重扉だったということだ。
 片開きの一間くらいの開き戸の中に小さい障子戸と板戸を備えた出入り口がある、出入り口の両側に左右20センチくらいあるから出入り口は半間はなく普通より小さい。こうだとすると真一兄の図はちょっと違ってくる。
 蝶番を軸にした開き戸の開け閉めはめったになかったから自転車の出し入れも小さい出入り口を持ち上げて出し入れする。小さい戸の高さは二段、20センチくらい、外側に角は丸みをもたせてあるものの、図のような楕円でなく長四角。私にはこんな印象だったが、後日兄たちに確認してもらおう。
 家の中に入るのは図のように一段踏み台を経てござ敷き側と前座敷側とに上がる。要は玄関は、その昔は土間だったろうと思うが母屋全体が60センチくらいの土台の上に築かれているに対し、玄関の内外は同一平面だったということだ。ただ、土間であったところだろうというものの、私の覚えでは初めからコンクリート張りで、土であった場面はない。

 次に囲炉裏周りの思い出。竈が二つ見えるが、右側は焚きつけ箱の後ろの仕切り板で南側からは見えない。この二つの竈の使い分けは分らない。右側が使われている場面の印象がない。左側は毎日母親が朝・晩私たちのご飯を炊いてくれた竈である。現代の小家族時代とは違う。大きな釜なのに朝も晩も新しく炊かなければいけなかったのだ。今の電気釜時代とは違う。母親には頭が下がるばかりだ。
 そして囲炉裏ではまた大きい鍋で味噌汁だ。お茶を飲むのにも鉄瓶でお湯を沸かす。自在鉤(これは当時はなんと言っていたか不明。そのものを名前で呼ぶ場面が起こらなかったのだろう。これはネットで調べた私も知らなかった呼称である)についている黒い魚は多分鉄製だったろう。そして自在鉤から連想されるのは、どこから吊るされているかだ。そうだ、黒く太い芯棒がドシーンと通っていた。西側は外にまで突き出ていたが、東側は度の辺までだろう?1号で見える裏からの写真と照らし合わせると、真一兄の図では焚きつけ箱と表6畳間のところの柱までか?いずれにしてもあの黒く太い梁は印象深いが、いま考えると、あれを支えていた柱は目立たなかったが凄かったのだなとつくづく思う。ちなみに真一兄の図で表座敷と奥座敷の間に柱が描かれているが、私はその印象がない。表と裏の廊下側には確かにあった。梁との関係では必要性は逆だと思うがこれは確かめどころだ。

 いちいち書きだしたらキリがない。裏玄関の水桶だけ書こう。二つの事。一つは、川端の井戸から汲んできてこの桶を満たすのが我々子供の役目だったこと。二つ目、冬、いつも表面は氷が張っている、その氷を打ち破って柄杓で使う水を出すのだが、その桶の内側周りの何重かになっているギザギザの氷の印象、これが目に浮かんでくることだ。

 2階図を作ってくれてあるのでちょっと触れよう。
 先に書いたように、そういえばあったな、という場所。真一兄も「六畳(?)」としているように、部屋というよりは「屋根裏」だった。下の表座敷が十畳間だから真一兄は図のような表現をしたのだろう。
 ただ、兄との印象ちがいかもしれないが、1階図で前座敷に機織り機が2台あるが、わずかの時期の違いか、私の覚えでは、1台がこの2階にあり、下の前座敷にあったという印象は全くない。
 みんな懐かしい。しかし、前にも書いたが、姪・甥は知らない世界、そして親たちもいまや居ない。一角は欠けたが、我ら兄弟しか共有できない。まさにHPなどに載せる対象ではなく、私の自己満足の代物だ。  
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