半生の一こま


私の生まれた家(16.7.10)

 私の生まれた家、旧サイトでは半生15号、35号で触れた。少し時代的に順序だててみたい。
    
 最も古い母屋の姿の表側(左写真)と、裏側(右写真)である。
 しかし、左の方がはるかに時代的には古い。私が知らないおじいさんがいる。向うに幼少の頃はよく遊んだ、そしてまだ知らない時代に疎開での横浜の家族が、記憶ができた時代になっても中部電力に勤めていたひとが下宿的に居た蚕室がみえる。二人の子供がみえるが、3人の兄のうちの2人であろう。見た目の幼児性から兄がS13、S14、S16年生まれだから、この写真は「戦中」かもしれない。

 右の写真はテレビアンテナがみえるから時代はかなり下ってはいただろう。屋根もトタンになっているように見える。テレビは一番上の兄が農協に就職して後に入手されたものだろうからS30年前後か。

 この写真は貴重である。
 我ら兄弟6人と笹部のひろみ、波田の典子がいる。
 二人とも直接的「いとこ」ではないが近しい親類筋である。
 ひろみはひ弱で、中学生になるかどうかの時期に亡くなった。
 典子は私や上の妹と同じ松本深志を出て、同窓生と結婚し家庭をもったが、子供は双子の女子で、その子はふたりとも現役で東大理系に入り、新聞にも出て話題になったものだ。

 写真から見る光景であるが、後ろに太いまっすぐな「ひのき」、その横に「みねぞ」、そして右上隅はまだ蚕室屋根と思われる。

 上の、表からの写真と比べて左庭がほとんど無い。道路拡張で削られたのだ。そして凛々しくそびえている後ろの「ひのき」もまさに道路際に在って根のふんばりが思うにまかせず、ある台風の夜にあえなく倒木となった。

 左奥の樹は拡張道路向う側の川端の「けやき」だ。この川端の土手が高低2メートルくらいあったか?。とにかく思い出多い。用水の分水地点になっていて、用水が止まったときにその川で「鱒」を取った思い出、自転車に乗るようになったばかりに、真っ逆さまにこの川に転落したこと、8月のお盆の最後の「流し舟」のことなどなど。
 
右の写真は上の写真の反対側、西から東に向かって撮ってあるものである。時代は再び遡る。やはりまだ私の生まれる前であろう。どの兄であるかもわからない。
 左側の石段列はこんなに不格好な様子は覚えがないが、向う側の「さくらんぼ」の樹が懐かしい。
 その向こうの牛小屋に続く建屋もいろいろな思い出が詰まっていて懐かしい。

 正面の土蔵は基本土台はまだ続いている。
 この土蔵の鍵のこと、土蔵の中の様子、懐かしい。


 手書きの屋敷図である。
 真一兄がエクセルで書いたものを散々探したがついに見つからなかった。

 屋敷地は基本的には変わっていないが詳細景観はその後もう何代かに亘って変わった。このあとその変化を追いかけてみようと思う。

 今年は干支の歳、もう申年7回目、12支を6周して、この故郷でのものごころつく4・5歳から19歳まではわずか1周ちょっとである。

 しかしそういう絶対時間とは別に「思い出時間」というものがあるとしたら、生まれ故郷での時間はいまでも長く懐かしいものに思われる。
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